彼方の手紙

 ――日本でいちばん勉強しているのって、高校生だと思う。
 木綿子ゆうこは溜息をついた。
「やだなぁ、もう、授業受けたくない」
 ぶつくさ言いつつも、学校を休むわけにはいかない。木綿子は観念して、靴箱の扉をかたりと開ける。
 ぱさり。
 開けた拍子にひらひらり、と舞ってそれは落ちた。
 拾い上げてみると、手紙だった。裏、表。ひっくり返して見てみるが、封筒には何の記述もない。
 ぱり、と封をはがして中身を取り出した。ほんの数行の、短い手紙だった。

 大事な話があります。
 昼休み、中庭まで来られたし。

 最後に署名があった。――塚原つかはらさとる、と。


 授業中も手紙のことが木綿子の頭にひっかかっていた。
 どんな人だろうか。
 急ぎ弁当を食べて、木綿子は教室を後にした。
 中庭に行ってみると、まだ時間が早いのか、あまり人はいない。まだ誰も座っていないベンチに腰をかけて、木綿子は待った。
 待ったけれど。
 待てど暮らせど、待ち人らしき人は現れない。
 こういう手紙は往々にして悪戯という場合がある。しかし、それにしてはきちんと名前が書いてあるのだ。
 木綿子は首を傾げた。


 釈然としないまま終礼を終えた木綿子は、友人の藤子とうこに声をかけた。手招きして藤子に耳打ちする。
「ちょっと、訊きたいんだけど。塚原悟って人知ってる?」
「うん、C組にいるよ」
 ――どういう人?
 木綿子が口を開こうとしたそのとき、からりと後ろのドアが開いて、青年が顔を見せた。
「あ、塚原くん」と藤子が声をあげる。
 ひょろりと背が高く、眼鏡をかけた悟は、ずいぶんと人の良さそうな顔をした青年だった。
 この人がそうか、と木綿子は悟の顔をまじまじと見つめる。
 ――どうも、約束をすっぽかすような人には見えないけど。
「あのぅ、手紙見た?」
 首だけを教室に入れたままで悟は問うた。
 そこでちょっとした違和感を木綿子は感じたのだった。つかつかとドアに近づいてばん、と全開にすると、
「ちょっと」
 と悟の腕をつかんだ。そのまま腕をぐいぐいと引っ張って、藤子からは見えないところに連れて行く。
「ちょっと、あんた」
 木綿子が指を突きつけると、困惑したままの悟はおとなしく「はい」と返事をした。
「藤子に手紙、出したね?」
「はい、あの……?」
「間違ってる」と言って、木綿子はポケットから手紙を取り出した。
「私に届いてるよ。靴箱、間違えたでしょう」
「……」悟は言葉もなかった。
 文句のひとつも言ってやろうと思っていた木綿子だが、この顔を見ているとどうにも怒れない。ついに木綿子はくすくすと笑い出した。
「あの子、最近仲の良い先輩がいるんだ。止めとけと言いたいとこだけど、実らぬ恋を実らせるのもいいじゃない。よし、この木綿子さんが協力してあげようっ」
「ええっ!?」
 悟の顔が見る間に赤くなった。
 手段は少々古典的だが、そのまま告白まで手紙で済ませてしまわないところを木綿子は気に入ったのだ。
「何よ、嫌なの?」
「……いや、そういうわけでは……」
「じゃあ、決まり。この後駅前の喫茶店でね」
 やると決めたら猪突猛進。木綿子は、かなり強引に約束を取り付けてしまった。鞄を取りに教室に戻る際、こう付け加えるのも忘れない。
「あんたが奢るのよ!」


 これ以来、ちょくちょく木綿子は悟と会うことになった。場所はいつもの喫茶店。そして当然のように代金は悟もちだ。
 最初の頃は藤子の話題が出たりしていたが、最近はそうでもない。名目が名目なので、木綿子は軽い不満を感じていた。
 ――せっかく橋渡ししてあげようと思ったのに。
 しかし、それを口にしたりはしなかった。意外とこの時間を気に入っていたのかもしれない。
「悟、藤子のことどう思ってるのよ」
「……聞かなくてもわかってるでしょう」
 いつも、こんな調子だ。
 直接問いをぶつけると、かわされてしまう。はっきりとした答えは返ってこない。
 木綿子は軽く口を尖らせた。
「そういうはっきりしないとこが駄目なんじゃないの。呼び出す勇気があるのなら告白しなさいよ。協力してあげるから、さ」
 うーん、と悟はまたまた煮え切らない返事だ。
 木綿子は、ばん、と軽く音をたててテーブルに手をつくと、立ち上がった。
 機嫌の悪そうな木綿子を見て、悟は慌てる。
殿森とのもりさん……?」
 ――終わりにしよう。
 木綿子は決意した。
「明日、八時に中庭ね。藤子を呼び出しておいてあげる」
 荷物を持って店のドアに手をかける。ドアのベルがカララン、と鳴った。
 木綿子はいちどだけ振り向いて、困惑顔の悟に笑ってやった。
「バイバイ」


 駆け出していたことに気づいたのは、足を緩めてからだった。
 いちど足を止めて、今度はゆっくり歩き出した。
「……終わりにしちゃった」
 木綿子はぽつりと呟いた。まだ心臓がドキドキしている。
 ちぇ、結構楽しかったのにな。
 悟と会うのは楽しかった。我侭な木綿子を享受する、悟の寛容さが心地好かった。
 でも、藤子をだしにして会っていたから。橋渡しの役目を果たそうとしないと居心地が悪かったのだ。藤子に対するいくばくかの罪悪感も伴った。
 協力しようしようと思いつつ、具体的な行動は先延ばしにしていた。この関係が終わってしまうから。
 でも、藤子がいないと成り立たないような関係なら。
 ……終わってしまえばいい。
 木綿子は携帯電話を取り出して、電話をかけた。何度か、コール音が耳に響く。
「あ、もしもし――藤子?」


 予鈴が鳴る少し前に、木綿子は悟のクラスに顔を出した。やりっぱなしで逃げるのは嫌だった。
 ――確認ぐらい、しとかなくちゃ。
「悟、どうだった?」
 何気ない風を装って声をかける。内心では、覚悟しきれないようなどきどきがあった。
 悟は、おはよう、と返すとにっこり笑った。自然と口が緩んで、どうしても笑ってしまうような笑みだった。
「……うまくいったの?」
 微かに声が震える。それを悟に悟らせないように、木綿子は必死だった。
 悟は、く、と声を洩らすと、体をふたつに折って堪えきれないように笑い出した。
 木綿子はぽかんとした。
 悟は笑いすぎて涙を浮かべている。
――は、ごめん、違うんだよ」
「は?」
「だから、違うんだ。篠原しのはらさんに手紙を渡したのは相談ごとがあったからで、告白なんかじゃないよ」
 木綿子はかあっと頬を赤らめた。
 ――勘違い?
「な、何よそれ。じゃあ、どうしてそれ最初に言わないのよっ。だいたい、相談って何なわけ」
「いやもう、殿森さんの勢いに押されちゃって。相談っていうのは、恋愛の」
「……相手は」
 悟は眩しそうに目を細める。
――あれ、わかんない?」

<了>


novel

2005 11 08