かりそめレジスタンス

 白を基調としたシンプルな造りの部屋の隅。壁際に沿って置かれたベッドに腰掛け、ユーディは室内をぐるりと見渡した。
 以前、自分が使用していた部屋とあまり変わらぬ造りだ。近衛隊の兵舎は共同ではなく個室なのが幸いだったな、とぼんやり思いながら、ユーディはこの部屋に居座るか出て行くか三秒おきに考えている。
 ひとりでぽつんと座っている分には問題はない。この部屋の主が帰ってくることが問題なのだ。
 ユーディの父が経営する料理屋に、酔ったガレルが上着を忘れていったのが、この出来事の些細な発端である。ガレルは店の常連であるし、それを抜きにしてもユーディがお世話になっていた義理がある。だから、上着を届けても問題はなかろうと、そう彼女は判断したのである。
 兵舎内で勤務している侍女を発見し、ガレルに会いたいのだがと話を通してみると、いきなりガレルの私室に案内されたのだ。何か勘違いしたらしいその侍女に、「大丈夫ですよー。ここ兵舎ですけど結構みなさん恋人とか連れ込んでますしー」と言われ、あたふたと否定していたのだが、一応男性用の兵舎なので廊下をうろうろ歩いている方が悪目立ちしますよ、とまで言われたら大人しく従うほかなかった。かつての同僚に会う展開はできるだけ避けたいからだ。かつて男としてここに勤めていたユーディが、女としてここにいる理由など到底説明できるものではない。
 ガレルの私室のため、そのうち彼が帰ってくるだろうことは当然ながら予想できる。しかし帰ってこられても困る、という矛盾した思いもある。考えなしにここまで来てしまったが、ガレルが帰ってきたとき、なんといって説明すればいいのだ。彼の留守中に、恋人でもないのに図々しく私室に入り込んでしまっているこの状況を。
 ――と思っている間に、どうやら眠ってしまっていたらしい。
「おい」
 肩を揺すられ、ユーディはぼんやりと目を開けた。ふかふかのベッドに仰向けになっているユーディの目の前に現れたガレルの顔と、彼女の両肩の外側に置かれた腕。
 はっと今度こそ覚醒した目を見開き、ユーディは慌てて飛び起きた。それと合わせて、ガレルも屈み込んでいた上体を元に起こす。
「何をしている」
「す、すみませんっ」赤くなったり青くなったりしながら、必死にユーディは弁解の言葉を捜す。「え、ええと、店に上着をお忘れになっていたようなので、お届けしようと。――あの、勝手に部屋に上がり込んだのは申し訳ないと思っていますが、不可抗力というかなんというか、その」
 と言っている間にあることに気がつき、ユーディは叫び声を上げた。
「なんで、服、着てないんですか――!」
「俺の部屋だ、俺がどういう格好をしていようと構わんだろうが」
 ガレルはむすっとして答える。訓練が終わったばかりなのだろう、額には薄っすらと汗がにじみ、暑いのか、上半身のものは全て脱ぎ捨てていた。
 その間の沈黙をどうとったのか、ガレルの声はさらに不機嫌になる。
「いいから、部屋を出ろ。――着替える」
 そうしてユーディは、あっさり締め出されてしまった。


 持ってきた上着は結局ガレルの私室に置いてきてしまったが、目的を果たしたとはいえ、挨拶もなしに帰ってしまうのはどうか。考えあぐねて廊下を行ったり来たりしていると、ふいに通りかかった隊員に声をかけられた。
「お、ユドー、久しぶり。ガレル先輩になにか用?」
 声をかけてきたのは、ユーディとさほど歳の変わらぬ、ティオという隊員である。
「え、ええええっと、いや、あの」
 呼びかけに応えて思わず振り向いてしまい、しまったとユーディは顔を強張らせる。しかしそれには頓着せず、ティオは落ち着かせるようにユーディの両肩をぱしぱしと叩く。
「まあ落ち着け、だいたい事情は呑み込んでるから、な?」
 混乱し、思考の止まってしまったユーディは、気がつけばティオに引きずられるままに食堂にたどり着き、そこの椅子にちょこんと腰掛け、出されるままに紅茶を啜っていた。
「……あの」思考力の回復したユーディは、おずおずとティオに水を向けてみた。
「リア絡みのことなら基本的に俺には筒抜け」とオーレリアン姫の乳兄弟である彼は言う。「俺が知ってて隊長が知らないことなんてざらにあるし。ま、今回は隊長が一枚かんでたけど」
「じゃあ、私のことは」
「最初から知ってた。隊長が巧くフォローはしてたけどな。知らなかった奴も、おまえを見たら気づくと思うな、おんなじ顔した別人がこんなとこうろうろしてるとは思わないだろうし。でもまあいいんじゃねえの、公然の秘密ってやつで、誰もわざわざ話題にしないと思うし」
 涼しい顔で、ティオはガレルと同じようなことを言う。いままで悩んだ私の苦労はなんだったんだ、とユーディは溜息をつきたくなる。
「……はあ、そうですか」とユーディはまた紅茶を啜る。
「で、今日は?」
「ちょっと、荷物を届けに来て、ガレル様の私室で待ってたんですけど……追い出されました」
 それを聞いた途端、ティオは呆れた顔でこれ見よがしに溜息をついた。馬鹿にされたと感じたユーディが「な、なんですかっ」と声を荒げると、
「おまえさー、それ、もうちょっと危機感持った方がいいと思うよ? 誘われてると思われても自業自得。求婚まがいのことされたあとだろうに」
「え、えええええなんですかそれ」
 というかなんで知ってるんですか! と思いながら、それはない、と真っ赤になって必死に否定するユーディを見て、ティオはにやりと含み笑いをした。
「そうにしても、先輩に会いに来たことは来たんだろ?」
「そんな……こと……」
 思わずユーディは声を詰まらせた。
 ――違う。そんなはずはない。自分はただ、忘れ物を届けに来ただけだ。会いに来たと、会いたかったと、認めてしまえばなにかが壊れてしまう。
 ほろ、と涙がこぼれた。
「ちが、う、んです」
「ユドー?」突然泣き出したユーディに驚いたティオが声をかけた途端、
「何をしている!」
 とガレルの一喝が響いた。
 泡を食ったように駆けつけてきたガレルを見て、ティオはげんなりとする。
「あの、これ、俺じゃなくてガレル先輩の所為ですからね」
「……そうなのか?」
 こちらに振られ、思わずユーディはこくんと頷いた。状況を把握できずに困ったガレルは諦めたようにユーディの手を引いて、ここじゃなんだから、と自室まで連れて戻った。


「で、なんだ、俺の所為だって?」
 ベッドの縁に並んで腰掛け、そう言ったガレルに、ユーディは黙ったままぶんぶんと首を横に振った。
「……黙っててもわからん。なんだ、結婚を迫ったのが嫌だったのか?」
「気がすすまないのは、ガレル様の方でしょう?」
 咽喉から絞り出したかのようなユーディの声を聞いて、ガレルはきょとんとした。
「なんだ、何を言っている」
「だって、責任を感じてそう言ってくださったんでしょう。私が怪我をしたから、私に怪我をさせたから。ガレル様はそれで責任を果たした気になっているのかもしれないけど、じゃあ、私の気持ちはどうなるんですか。私だけが勝手に想いを募らせていて、それでガレル様の気持ちが義理なのだとしたら、そんなの、つらいだけじゃないですか」
 決心したように一息に言い放ったユーディを見て、そんなふうに思っていたのか、とガレルは苦い息を吐いた。
「鈍い、おまえは鈍すぎる。誰が惚れてもいない相手に求婚なぞするか。俺はそんな自己犠牲精神に溢れた男じゃないぞ」
「だ、だって……」
「だって、なんだ。言え」
 こうなったら全て吐かせてやるとばかり、ガレルは次の言葉を迫る。
「だって、さっきまで男だと思っていた相手がそうじゃないって知って、次の瞬間手のひらを返したかのように求婚するなんて信じられません」
「危なっかしくて庇護してやろうと気にかけてた相手が、実は目の前にいる女だと知ったら惚れてもおかしくないだろう。だいたい、女としてのおまえとはしばらく付き合いがあったわけだし。責任云々を持ち出したのは悪かったと思うが、あれはただの口実だ」
「……ガレル様も充分わかりにくいと思う……」
 鈍い鈍いと責められたが、実はガレルの伝達技術が拙いだけではないかとユーディは思った。
「わかった」と諦めたかのように息を吐いて、ガレルはユーディの手を取った。
「俺の言葉が信じられないのなら何度でも言ってやる。――俺の嫁に来い」
「……はい」
 と頬を染めたユーディが素直に頷いたのは、こんなことを何度も言われたら堪らないと痛感したからである。

<了>


novel

2008 01 27