幸せになりましょう。

インプリンティングな彼


 堅苦しい講義も終わり、セフィリアは肩をほぐすように軽く伸びをする。
 友人二人と連れ立って歩いていたが、大学を出たところで見覚えのある車が目に留まり、慌ててセフィリアは駆け寄った。
「ノイン!」
 呼ばれた彼は涼しい顔で車から降り立った。
「セフィリア、お迎えに上がりました。この後、食事でもいかがかと。そちらのご友人方も、ご一緒にどうですか?」
 言いつつ、ノインは柔らかな物腰で助手席のドアを開ける。
 話を振られた友人たちは、「とんでもない!」と即行で断った。じゃあそういうことだから、と曖昧に別れを述べ、セフィリアは車に乗り込んだ。
 走り去る車の後ろから、びしばし視線が突き刺さるのを感じる。友人たちは、セフィリアの恋人に興味津々なのだ。無理もない。学業と勤労の両立に忙しく、恋人の「こ」の字も出さなかったセフィリアである。突然、大金持ちの婚約者が現れようものなら、怒涛の詮索に遭うのは必至である。だからかろうじて、ノインは恋人だということで留めていた。
 セフィリアは、昔のことは友人たちに話してはいない。ノインにも、友人の前で「お嬢様」などと口走らないように釘を刺してあったが、彼女の前で改まる態度だけはどうにもならないようだ。そのため、友人たちは馬鹿丁寧なノインのことを「変な人だ」と認識しているらしい。溜息が出る。
 ――そして、当のノインは、未だにセフィリアのことをお嬢様だと認識しているように見受けられる。
 そのことが、セフィリアの胸を締め付けるのだ。
 セフィリアが思考に耽っているうちに、車はゆるゆると道端に静止した。隣の顔を見上げると、ノインは難しい顔をしてポケットからハンカチを取り出し、セフィリアの頬に当てた。
「なにを、そのように憂えているのです」
 問われて、いつの間にか泣いていたことに気づき、セフィリアは赤面した。
――なんでもないの」
「なんでもないようには見えません。心配事があるならおっしゃってください。それとも、私には言えない類のことですか」言葉を紡ぎ、ノインは眉根を寄せた。「……もしや、後悔していらっしゃいますか? 私の想いを受け入れたことを。確かに、どのような理由はあれ、私はあなたにひどい仕打ちをしました」
「ち、違うの、そういうことじゃないわ」
 慌てて否定したセフィリアの手を取り、ノインはその掌に口付ける。
――では、話してくださいますね? どのようなことでもあなたの言葉を聴きましょう」
 その優しい声音に、セフィリアの涙腺はまたもや緩んだ。ぽたりぽたりと、膝の上に涙が落ちる。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」
――セフィリア?」
「……たった四年よ。私が、あなたの主だったのは、あなたの人生の中でたった四年だけ。それが、こんなにもあなたを縛っているとは思わなかったの」
 セフィリアの前では、ノインは無条件に態度を改める。まるで、使用人、お嬢様の関係が刷り込まれてしまったかのように。セフィリアにとってはノインがいる分だけ少し濃い年月だったほどの四年が、ノインにとっては人生を一変させるほど強く刻まれた歳月であったのだ。だから、絆を断ち切ろうとしたセフィリアを、彼はあれほどまでに憎んだのだ。彼がどれほど絆に飢えていたか、愛情を欲していたか、セフィリアはなにもわかっていなかった。彼が、その絆に縛られて、セフィリアの存在を捨てることすらできなかったのならどうすればいい。
「セフィリア、泣かないで。私は、あなたとの絆を捨て去りたかったわけではありません。むしろ、自ら進んでそれを欲したのです。本当に、心からあなたを憎んでいたのなら、私はまずなによりもあなたの使用人であった過去を消し去ろうとしたでしょう。自分の中に染み付いたそれを消すことができないのであれば、私はそれを思い出させるあなたとの接触を絶ったでしょう」
 ノインは、セフィリアの手を握り締め、それを自らの額へと押し当てた。
「私は消したくはなかった。私とあなたを繋ぐものはそれだけだったからです。それを否定すれば、私とあなたはただの、赤の他人になってしまう。だから、いまでもそれにすがってしまうのでしょう」
「……ノイン、本当に、いいの? 私なんかで」
 セフィリアの自信無げな台詞に、ノインは微かに笑んだ。
「たとえあなたが嫌だと言ってももう遅い。やっと、新たな絆を手に入れたんだ、もう手離しはしない」
 その言葉に、セフィリアの胸はいっぱいになる。思わず、両腕を差し出してノインの首に抱きついた。
――絶対、幸せにするからね!」
 それを聞いたノインは、からからと朗らかな笑い声を上げた。


novel

2007 12 02