春の雪どけ

「レオ、仕組んだろう」
 窓辺の陽光を背に、さあ吐けとばかりグリフォードはレオナルドに向き直った。
 レオナルドの妹、グリフォードが焦がれてやまない娘カレンは、半年のちにはグリフォードと婚姻する。彼女をこの手にすることを考えただけで、グリフォードの胸は高鳴り呼気は乱れ打ちのごとく常ならない。
 しかし、グリフォードとカレンには元々何の接点もなく、本来ならば会話をすることも叶わなかったはずだ。自分の部下に突然カレンという人選が降って沸いたのには、レオナルドが一枚噛んでいるに違いないという確信があった。
 そんなグリフォードにレオナルドが返したのは、皮肉な微笑だ。
「カレンごときに、よくぞそこまで入れ込めるものだな。ああいう、うじうじおどおどした生き物は虐めたくならないか?」さらりと話を逸らすレオナルドに、
「とんだ兄貴だな。どうしてそういう捻くれた思考になるんだ。あのような少女は、守ってやりたくなるのが男というものだ」
 グリフォードは恥ずかしげもなく言い放った。
 それを受けてくつくつと笑うレオナルドを前に、グリフォードは憮然とした。
「なあ、グリフ」笑いを収め、レオナルドは柔らかな声音を吐く。「俺はおまえに幸せになってほしかったんだよ」
 グリフォードはなぜか極端に女運がなく、好みの女性とは会話らしい会話をしたことがない。幾人かの女性遍歴はあるが、それは彼が最大限に妥協した結果でしかなく、どの相手とも早々に別れていた。
 だからレオナルドは今回のことを仕組んだのだ。婚姻というところまで積極的に考えていたわけではないが、お互いに仕事であればそれだけ会話をする機会は増える。グリフォードにはいままで訪れなかった「好みの女性と会話する機会」を作ってやれるし、それに加えてカレンの人見知りが少しでもましになれば御の字だったということだ。
「まあ、カレンにおまえは勿体ないが」
「レオ……」
 感謝の言葉こそ口には出さなかったが、グリフォードはカレン以外にはめったに見せない微笑を浮かべてみせた。その顔さえ出し惜しみしなければもっともてるだろうに、とレオナルドの目は言っていたが、それこそ口には出さない。
「ところでレオ、当のカレンは?」
 そわそわと口にしたグリフォードに、レオナルドはそもそもそれが目的だろうと言わんばかりの底意地の悪い笑みを顔に貼り付けた。
「今日は訓練を見学すると言って練兵場に向かったぞ」
――それを早く言え!」
 グリフォードは上着をひっつかむと、疾風のごとくレオナルド邸を飛び出した。


 カレンがグリフォードの下で働いていたのは、ほんの一時的なものだった。だから、彼女は既に期限の期間を終えて、任を解かれているのである。
 当然ながら、毎日顔を合わす機会は失われている。そのため、グリフォードは友レオナルドに会いにいくと称して、カレンの家に赴いている。素直にカレンに会いにいくと言わないのは、彼女に拒絶されることを恐れてである。いまだにグリフォードは、自分がカレンに好かれているのかどうかわからない。
 しかし、たまにカレンは自分から練兵場の方に来ることがある。もしや自分に会いに来てくれているのだろうか、それとも三ヶ月働いた職場が懐かしくて、知り合った人々に会いに来ているのだろうか。それすらもグリフォードにはわからない。
 だが、今日はまずい。
 グリフォードの足が急いだ。ブリザードと評されるグリフォードは、沈着な態度を崩さず、見苦しくがむしゃらに走ったりはしない。しかし焦る靴先は、競歩のごとくガツガツガツと苛立たしげな足音を帯びた。
 今日はティオがいないのだ。姫の乳兄弟である彼は、人見知りであるカレンが唯一打ち解けている人物であった。むろん、司書官のルゥエや女官のミナなど、彼女が親しくなった者はほかにもいるのだが、近衛隊員の中ではティオだけに懐いている。そこに自分の名を入れられないのが悲しいところだ。
 グリフォードはカレンが心配だった。隊員の中には、グリフォードの婚約者という肩書きに興味を覚え、ちょっかいをだそうと待ち構えている連中がうじゃうじゃいるのだ。人見知りのカレンが野次馬野郎どもに囲まれて怯えている姿が目に浮かび、グリフォードの心臓はぎゅっと縮まった。
 なんとか息を整えて練兵場に飛び込み、グリフォードは目でカレンを探す。はたしてそこらの連中がカレンを取り囲んでおり、彼女を見つけるのは容易だった。
「カレン!」
 グリフォードはずかずかと歩み寄る。辺りの視線は彼へと集まった。
「何をしている」
 グリフォードがその鋼鉄の視線で隊員どもを撫でると、彼らは並んで直立不動で固まった。
「な、なんでもありません! 訓練に戻ります!」
 揃って回れ右をした彼らは、駆け足で隊列へと戻っていった。
 それを見送って、グリフォードは俯いているカレンへゆっくりと近づいた。握り締めたカレンの両手が微かに震えている。知らない人たち、それもカレンから見れば大男どもに囲まれて、さぞかし怖かったことだろう。
「カレン、もう行ってしまった」グリフォードは努めて優しい声を出した。
「グリフォード様!」
 涙目の顔を一瞬上げたカレンは、グリフォードの腕の中に飛び込んできた。
 グリフォードは目を丸くする。どうやら自分は、番犬程度には信頼されていたらしい。
 それが嬉しくてくすぐったくて、グリフォードはカレンの肩にそっと両腕を回した。


 微かな気配を感じて、グリフォードは目を覚ました。
 ふいにカレンの顔が視界に飛び込んできて、グリフォードは慌てて跳ね起きた。
 風に煽られ、ざわざわと葉が鳴った。一瞬、状況を呑み込めなかったがすぐに、戸外で眠ってしまったのだと了解する。訓練に疲れて涼しいところを探していたら、庭園裏の木陰にまでたどり着いたのだ。秋風はすでに冷たいと言えなくもないが、グリフォードは一向に堪えなかった。
 現在の状況は呑み込めたが、さて、カレンがここにいることには疑問を覚える。
 偶然見かけたのか探してくれていたのかはわからないが、下りる沈黙に、改めて訊く機会は既に逸した。
 カレンと二人でいると、時間がゆるやかに流れているような気がする。レオナルドやらヒースケイドやら、普段周りにいる連中は少しばかりやかましいので、その沈黙すらも心地好かった。
 隣に座ったまま黙っているカレンの顔を、グリフォードは覗き込むようにする。すると、さっと視線を逸らされた。
「カレン?」
 そっと肩に手を置いてみれば、カレンはびくりと反応して身をすくめる。グリフォードは、燠火おきびに触れたかのように手を引っ込めた。
「すみません、あの、あのう、違うんです」カレンは慌てて弁解する。
 グリフォードを恐れているということではなく、単にまだ慣れていないだけなのだろう。切なく思ったが、その心遣いが嬉しかった。
 グリフォードはまだ、そこまで焦って彼女をどうこうしようという気はなかった。たとえ妻としたあとでも、彼女をゆっくりと待ち続けるだけの気の長さは持ち合わせているつもりだ。なにしろ自分は、彼女を手に入れる確約を手にしただけで、充分に幸福者なのだから。
 気にしていないと言うように軽く首を振り、グリフォードは話題を変えた。
「カレン、今日はすまなかった。ティオがいない日だったんだ、伝えておけばよかったな」
「いえ、私がびっくりしただけで、何もされていませんから……」カレンはこくりとひとつ頷いた。「みなさん、グリフォード様のことばかり訊くんです。休日は何をしているのだとか趣味は何かとか、気の知れた人にならよく笑ったり話したりするんじゃないかとか……おかしいですね」
 おかしいと口にしつつ、カレンの表情は楽しそうだとはとても言えなかった。なぜ隊員が自分のことを知りたがるんだという妙な疑問が生まれたが、グリフォードはそれよりカレンの沈んだ様子の方が気にかかる。
「私、何も答えられなかった。何も知らなかったんです、グリフォード様のこと」
 カレンがグリフォードの目を見た。グリフォードの胸は、知らず熱くなる。彼女が言っているのは、申し訳ないなどという意味ではない。カレンは、知らなかった自分を恥じているのだ。
 それは、裏を返せば、グリフォードのことを知りたいと言っているのに近かった。
「私も、君のことは何も知らない。知りたいと思っている」
 グリフォードは、地面についていたカレンの手を、その大きな掌でそっとすくった。
 今度はカレンも逃げなかった。
 カレンの掌はさらりとしていて少し冷たくて、そして、ひどくやわらかかった。


 その日、グリフォードは通りを歩いていた。
 雑貨屋をぐるりと覘いてきたのだ。普段いろいろと菓子を注文してきてくれる、弟ウィーダリオンへのお礼に何か選ぼうと思ったのだった。存外にウィーダリオンは可愛い小物が好きだ。シンプルな作りに動物のレリーフなどが入っていると喜ぶ。
 今日は下見に覘いただけで買わなかった。カレンを誘って見てもらえばいいかもしれない、と思いつくと思わず口元がほころぶ。第一、グリフォードが一人で雑貨屋をうろうろしていても、勝手がわからない上に場違いなのだ。
 もう風も冷たい夕刻だ。どこか店に入って紅茶でも頼もうかと思ったとき、ふと視界にカレンの姿を認めた。
 カレンは、通りの脇にある公園の人気のないベンチに腰掛けて、ぼうっと前を見ている。
 グリフォードはゆっくりと彼女に近づくと、その隣に腰を下ろした。
「カレン、買い物か?」
「あ、はい……」
 返答の声に、グリフォードは妙だと首を傾げた。反応が鈍い。
 失礼、と断ってカレンの額に掌を押し当てれば、案の定、熱を帯びていた。
「熱があるじゃないか。帰りなさい、馬車を呼んであげるから」
「……訊きたいことがあるんです」
 唐突にカレンは鋭い声を放つ。熱で混乱しているのかと、グリフォードは優しくなだめた。
「いまはいい。とりあえず帰りなさい」
「いろいろ考えてたらわからなくなっちゃったんです! 答えてください!」
「どうした」
 上衣の胸元を握り締めてくるカレンに狼狽しながら、その手にグリフォードはそっと自分の手を重ねた。
「グリフォード様は、ほんとに、私なんかがいいんですか?」
 ――虚を衝かれた。本当にそう思っているのか、この娘は。一日に何度、グリフォードがカレンの名を口にしていると思っているのだ。
「好みのタイプだって、そう、言ってもらいました。でも、不安なんです。だって、同じタイプの子なら、別に私じゃなくたっていいじゃないですか……」
 そう言って、カレンはほろほろと涙をこぼした。
 その姿に見惚れつつ、グリフォードの胸はうち震えた。カレンは、泣き言はこぼしても――雷の日はともかく――実際に泣きついてきたことはない。これまでだって、泣くときはひとりで泣いてきた。
 そのカレンがいま、目の前で涙を見せている。しかも、ほかでもないグリフォードのために。
 いつだって、相手の気持ちがわからなくて、不安なのは自分ばかりだと思っていた。言わずに伝わるだなんて、虫のいい話はないのだ。だからグリフォードは、その言葉をそっと舌に乗せた。
「カレン。私は、君でなくては嫌だ」
 こんどこそカレンは、グリフォードにしがみつき、声を上げてうわーんと泣いた。
 胸に触れた熱さに、グリフォードはそっと上着を脱ぐと、カレンに着せ掛けた。カレンは、これじゃ歩けないです、と言って僅かに笑んだ。たしかに、グリフォードの上着は彼女には大きすぎて、裾を引いてしまう。
 では馬車を呼ぶまで、とグリフォードはカレンを上着ごと抱え上げた。ひどく熱くてやわらかい重みを腕に感じた。あまりのやわらかさに、このまま力を込めたら消えてなくなってしまいそうだと思った。
 ふとカレンを見ると、安心したのかことんと眠り顔を見せている。
 目が覚めたらどんな顔をするかな、とグリフォードの口元に笑みが浮かんだ。
 自分にだって春が来たのだ。まだ少し、頑ななところのあるカレンの心も、時が来れば雪のように融けるだろう。
 ――そう、きっと、春になれば。

<了>


novel

2007 08 21