雷雨に落つ

「調子に乗んなよ」
 目の前の仁王立ちになった少年に突然言われ、カレンは目を丸くした。
 しかし抗議する間もなく、さっと横から伸びた手に少年の頭ははたかれる。
「馬鹿野郎。グリフ先輩の大事な人に失礼なことをするんじゃない」
 少年を諌めたのは、近衛隊員のティオだ。姫の乳兄弟である彼は、二十代後半が中心の近衛隊の中でも抜群に若い。さっきからこちらを睨んでいる少年は、まだ訓練生のようだ。
 ああ、とカレンはこっそり溜息をついた。こんな年下の少年に敵意を向けられて、こんなところで自分はなにをしているのだろう。
 空はすかんと晴れ渡り、というよりじりじりと暑い陽気である。カレンが座っているのは練兵場の端っこにある石階段だ。ちょっと気が向いて、グリフォードの訓練ぶりを覗きに来たのである。
「すみません、ライールがどうもとんだ失礼を」
 こちらに顔を向けたティオは、にっこりと笑った。先ほどなにやら重大発言をされたような気がするが、気のせいということにしておこう。
 比較的若い者同士が群れている姿に気づいたのか、離れたところにいるグリフォードが、こちらに視線を投げて僅かに笑んだ。カレンも少し照れくさい気持ちになりながらも微笑み返す。
 いじけて座っていた少年ライールがすっくと立った。そして、
「ずるいずるいずるいー!」
 と叫びながら逃げ去った。
 その憎らしい小柄な背中を見送りながら、稲穂色の後ろ頭がやたら可愛いな、とカレンは脈絡のないことを思っていた。大量の疑問符と共に。
「カレンさん、気づいてますか」とティオが言う。「グリフ先輩、あなたにだけ愛想がいいんですよね」
「……なんとなくは」
 動揺しつつカレンは答えた。嘘だ。ばりばりに気づいている。
 鋼鉄の瞳と噂されるグリフォードが、愛想の欠片もないグリフォードが、カレンに対してだけは柔らかく微笑む。毎日の挨拶も欠かさない。結局、例の差し入れも続いたままだ。
 以前なら怖くて逃げ出しただろうが、少し慣れてしまったカレンは、困ったことに優越感のようなものを感じてしまう。自分だけということ。誰かの特別になれるというのはすごいことだ。
「でも、これは知らないでしょう」ティオはにやりと笑った。「あの人がすごい人気者だってことは」
 女にもてる、ということではない。というより男にもてもてなのである。変な意味でなく。
「実力なら一番ですもん。隊長だって敵いません。みんな、グリフ先輩が目標なんです。尊敬してるから目に留めてもらいたいのに、ブリザードですからねあの人。それを横から出てきたカレンさんが先輩の関心をぜんぶさらってしまった」口が悪くてすみませんね、とティオは一言断った。「訓練生なんてもう、対抗意識燃やしまくりですからね。一手指南受けるだけでもひと苦労だからなあ」
「指導とか、していないんですか?」実力者ならばなおさら、とカレンは思ったが、
「あの人、加減できないんです」ティオはばっさりやっつけた。
 人見知りのカレンでも、人好きのするティオに対しては話しやすい。
 ついつい会話がはずんでしまったが、ティオは口を押さえ、しまったと呟いた。
 見ると、グリフォードがこちらを見ている。細めたブリザードの瞳は無表情だ。たまに、グリフォードはその顔でこちらを見ていることがある。機嫌でも悪いのかと、カレンは心臓がきゅっと縮み上がるような気がしてしまう。
「嫉妬してんですよ」呆れたようにティオが呟いた。「あーあ、今日は珍しく指導してくれる気になったってのに、こりゃ死屍累々だぞ……」
 そして、その言葉通りになった。


 プロポーズ未遂事件はグリフォードからウィーダリオンに、ウィーダリオンから隊長ヒースケイドに、姫に、カレンの兄レオナルドへと、瞬く速さで伝わった。その行動力に兄と父は小躍りし、グリフォードは婚約者候補から婚約者へと出世した。
 なんということだ。
「グリフォードはまだ知らないだろうから、おまえから伝えてやれ」とは兄の言葉だ。
 とんでもない。
 どう知らせればいいのかと、カレンは日々頭を悩ませている。
 ふうっと息を吐いたとき、向こうからやってくるティオとライールにばったり行き会った。
「悩み事ですか、カレンさん。溜息つくと幸せが逃げますよ」
「大丈夫。どちらかというとたぶん、幸せな悩みなんだと思います」
 自分も言えるようになったもんだなあとカレンはこっそり感慨に耽った。
 社交的なティオとは逆に、ライールはと見れば相変わらずの顔でこちらを睨んでいる。
「なんでグリフ様、あんたみたいなのがいいんだろ。たいしたことないじゃん」
 口を開けば憎らしいことを言う。ティオに倣って殴ってやろうかと思ってしまったぐらいだ。
「羨ましがっても駄目。おまえは小動物系にはなれない」とティオが明後日の方向にカレンの援護射撃をしている。
 そんなティオは、カレンの方を向いてにたりと意地の悪い笑みを見せた。
「グリフ先輩の好みは顔に似合わず小動物系なんですよねえ。カレンさんみたいな人が子兎だとしたら、グリフ先輩は熊とは言わないけど狼なわけで。当然、子兎ちゃんに懐かれたことなんてなくて、みんな、顔を見ると逃げちゃうんですよねえ。ああ、先輩可哀想」
 なんだか知らないが日ごろの鬱屈が溜まっているらしく、楽しそうにティオは言う。
 つまりはこう言いたいらしい。カレンの場合仕事のために有無を言わさずだったが、グリフォード好みの女で彼とまともに相手をしているのはカレンだけなのだ。それは、確かに、入れ込んでしまうのも無理はないと認めざるを得ないのかもしれない。
「よく見てるんですね」カレンはうっかり感心してしまった。
「人間観察は得意なんです」
 ほかにも心当たりがあるかのようにティオは含み笑いをする。
「……ずるい」
 ぽそりと、場の空気に少年の重い声が割り込んだ。笑って流そうと思ったカレンだが、続く声の悲痛さに彼女の表情はぱきりと凍った。
「ずるいよ、あんたはいなくなっちゃうんだ。グリフ様を夢中にさせて、それで三ヶ月経ったらどっかに帰っていっちゃうんだ。そんなの、グリフ様が可哀想だよ」
「……あなた、それで私を怒っていたの」
「だって、そうだろう。戻ってくるのかよ」
 ライールが真剣だったので、カレンも真面目に返した。
「ううん、戻らないわ。たぶん、結婚することになると思う」
 重大な秘密がするりと口から洩れ、しばし沈黙が辺りを覆う。
 そのとき、ティオがはっとした声を出した。
「先輩」
 振り向くと、当のグリフォードがこちらに歩いてきたところだった。
「あ、お疲れ様です」
 カレンが挨拶をすると、彼は頷き返し、ふっと目を緩めて彼女を見下ろした。
 その瞳が優しくて、カレンはどきどきしてしまう。
 カレンは掌で胸元を押さえた。まさか、さっきの会話、聞かれなかっただろうか。


 窓の外を見やれば、灰色の雲がごうごうと流れている。
「なんだか暗くなってきましたね」
 紅茶の入ったティーカップをグリフォードのデスクに置きながら、カレンは不安げな声を吐いた。まだ夕刻だというのに。
「……嵐が来るな。ご苦労。もう帰っても構わない」
 淡々とグリフォードは答えた。室内の暗さに、グリフォードの顔はカーテンの影に遮られ、よく見ることが出来ない。
 ふと、二人は無言の谷間に落ち込んだ。普段お互いに黙っていることが多いのではあるが、時おり、このように真の『沈黙』がやってくる。そしてその瞬間、空気はたしかに僅かばかり濃密になるのだ。
 気まずい。
 お言葉通り帰ろうかな、とカレンが思ったとき、その音は降ってきた。
 ばた。
 ばたばたばた。
 地面を見る間に黒く染める雨の音が、辺りを塗りつぶした。ばたばた、が穏やかならぬどーっという音に変わり、口を開いても声すら届かぬほどの轟音がカレンの耳を浸す。
 カレンの足は縫いとめられたかのように動けなくなった。
 あれが。あれが来る。
 カレンの咽喉がひくりと動いて唾を飲み込んだとき、それはやってきた。
 白い閃光が辺りを満たし、世界は刹那、白と黒に塗り分けられた。窓際のグリフォードの無表情な顔が一瞬見て取れて、そして辺りは暗くなる。そして、しばしの静寂のあと、獣の唸り声のような恐ろしげな音が辺りに轟き渡り大気を震わせた。
 カレンは叫び声を上げてその場にしゃがみ込み、耳を両手で強く塞いだ。
 怖い怖い怖い。
 カエルもネズミも平気なカレンだが、雷だけは怖い。いつもは意地悪な兄も、雷の鳴る夜だけは一緒にいてくれるほどだ。
 いつもは人のいる部屋に駆け込んで明かりをたくさんつけて、クッションで耳を抑えながらベッドに潜り込むという手段をとっている。しかしこの部屋には隠れるところなどない。室内が暗い所為で、稲光がいつもより鮮明に白く浮かび上がるのが恐ろしい。
 完全に怯えてへたり込んでしまったカレンを見て、グリフォードは椅子から腰を上げていた。
「大丈夫か」
 大丈夫なわけがない。涙目で顔を上げたカレンの前に、グリフォードはゆっくりと片膝をついた。
「も……やだ、怖い」
「灯りでも持ってくれば落ち着くだろうか」
 薄情にも立ち上がりかけたグリフォードの服の裾に、カレンは思わずしがみついた。
「い、行かないで、ください」


 一瞬、グリフォードと視線がかち合い、白い閃光がまたひとつ落ちた。
「いやーっ!」
 恥も外聞もかなぐり捨て、カレンは膝立ちのままグリフォードに抱きついた。
 すすり泣くカレンの肩のあたりでグリフォードの腕がさまよい、そして両のかいなで彼女をかき抱く。
 カレンはなすすべもなく震えている心臓の鼓動が少しずつ落ち着いてゆくのを感じた。
 グリフォードは大きい。それは、普段はカレンに恐怖を与えるものであったのだが、こういうとき、その揺るぎない大きさはカレンに安心感を与えた。
 そのまま、どれほど時間が経ったのだろう。
 ふとカレンは、雷と豪雨の音が治まっていることに気づいた。まだ雨は降り続いているのだが、ぱたぱたしとしとという程度のものだ。
 冷静になってみると、この状況はかなり恥ずかしい。
「あの」
 離してくれの意を込めてグリフォードの胸を押し返そうとするが、その距離はぴくりとも広がらない。
 カレンの背中で交差されていたグリフォードの腕が、片方するりと落ちてカレンの腰の辺りにたどり着いた。
「あの、あの」
 真っ赤になってグリフォードを振りほどこうとするカレンの耳に、やけに落ち込んだようなかすれた響きが落ちた。
――カレン。結婚するというのは、本当か」
「いやあの、それは」
 唐突な台詞に驚いて、カレンはまともな返答を返せない。ではやはり、あのときグリフォードは聞いていたのだ。
「答えてくれ。誰とだ」グリフォードの腕の力が強くなる。
「あの、ええと、グ、グリフォード、様と、です」
――は?」
 途端に力が緩んだのをいいことに、カレンはグリフォードの腕の中から抜け出した。
「婚約者、なんですよ。一応、政略結婚ということで」
 状況が呑み込めたのか呑み込めないのか、呆けたようなグリフォードの瞳とカレンは視線を合わせる。
 そのとき、コンコンコンと軽いノックの音がした。
「兄さん?」
 暗闇に足を踏み入れたのは、爽やかな雰囲気の貴公子ウィーダリオンだ。彼は室内に入るや否や、座り込んだカレンとグリフォードの近すぎる距離を見、彼女の頬に涙の跡を見て取って顔をしかめた。
「灯りを持って来てみれば……なにをやっているんです、グリフ」
 誤解を解こうと青くなったり赤くなったりしたカレンが口を開きかけると、グリフォードの台詞があっさりとそれを遮った。
「問題ない。婚約者だ」
 問題大有りである。
「……聞いてないんだけど、僕」
「俺もいま知った」
 目を見合わせ思わず幼い兄弟のように確認しあう二人を後目に、カレンはずりずりと後ずさりドアノブに手をかけた。
「では、そういう、ことですのでっ」
 なにが、そういうこと、なのか自分でもわけがわからないが、とりあえずはそう、
 ――まあなるようになるだろう。

<了>


novel

2007 07 25