砂糖菓子とブリザード

 カレンは究極の人見知りである。
 彼女はいま、目の前の人物の視線に萎縮しながら、話が違う! と心の中で叫び声をあげていた。
 ときおりちらりと窓の外に目をやりながらも沈黙に耐え切れず、上ずった声が口をつく。
「あ、あのっ、退室してもよろしいでしょうか……」
「君の仕事場はこの部屋なのだが」
 再び、室内には目に見えぬブリザードが吹き荒れた。


 婚約者候補。あれが。
「嘘でしょ……」カレンはげんなりと呟いた。
 カレンの家は、下級ながらも一応貴族という身分がくっついている。
 このたび、政略結婚の話が出たのだが、先方の当人にはまだ話を通してはいない。性急にことを進めては、人見知りのカレンが馴染めず困惑したまま話が決まってしまうかもしれない。ということを心配性の父親が危惧したためであった。
 当のカレンも急ぎの話ではないということでのんびり捉えていたのだが、思わぬ伏兵が兄であった。そんな悠長なことでカレンの人見知りが治るものか! と要らぬ使命感を発揮させた挙句、とにかく本人に会って来い、と言ってカレンを近衛の兵舎に放り込んだのである。
 兄の口利きと、こういった戯れが大好物の姫の手腕によって、カレンは無事に近衛隊専属の事務官として採用された。真の目的は伏せて、良家の娘の社会勉強、ということになっている。まあ間違ってはいない。
 官とは名ばかりの雑用係なのだが、隊長やそれに準ずる立場の者には国家機密というものが関わってくるため、身元の確かな専用の雑用係を用意することになっている。もちろん、立場に応じて個人に専用の事務官が就いていたりもする。今回もその類なのだが、人選が間違っているとしか思えなかった。
 カレンは近衛隊の一員、ウィーダリオンのような人物を想像していたのだが、彼女が就けられた相手は、鋼鉄の瞳、ブリザードの異名をとる大柄のグリフォードだったのである。
 ウィーダリオンが貴族の中の貴族ならば、グリフォードは剣士の中の剣士である。もちろん、カレンとウィーダリオンとでは身分が違いすぎるので、彼が婚約者かも、などという要らぬ夢想はしていない。
 それにしても、である。グリフォードは黒髪に黒い瞳、そのどっしりとした佇まいと体格から、たとえ明るい色の服を着ても「黒い」としか形容できない風情がある。対するカレンは、人見知りの姿しか知らぬ者が見れば、ふんわりとした雰囲気の白くたおやかな、芍薬のような娘なのだ。
 致命的に釣り合わない。
 人見知りに加えて、カレンは大柄なグリフォードが心底怖いのである。ブリザードの視線に晒されると、逃げたくなってしまう。先ほどだって、やたらじろじろ見られていたような気がした。おそらく、直属の部下になったカレンを値踏みしていたのだろう。
 あれが婚約者とは。『慣らし』期間とされた三ヶ月を終わらせて、早く家に帰りたい。
 そして、断ってしまおう。そう、カレンは固く思った。


 グリフォードの部屋の掃除を終え、カレンは自室に引っ込んだ。もちろん兵舎ではなく別館だが、通いではなく住み込みなので、カレン専用の部屋があるのである。
 今日もグリフォードとはまともに話ができなかった。グリフォード付きになって三日経つが、彼が寡黙である以上に、カレンが逃げ腰なのである。
「早く帰りたいよ……」頼りない声で呟いて、カレンはよろよろとドアのノブに手をかける。
 そこで、ドアの前に紙袋が置かれていることに気がついた。
「なんだろ?」
 手を差し入れ、一袋のクッキーと一枚のカードを発見する。カードには、少し細長い筆跡で「カレンへ」とだけかかれていた。どうも、差し入れのクッキー、ということらしい。
 まがりなりにもカレンは貴族の娘である。どこの誰が用意したとも知れぬ食べ物を口に入れるわけにはいかない。しかし、そのクッキーの前にカレンは無力だった。それは角のケーキ屋で売っている、数量限定の極上クッキーだったのである。カレンにとっては手に入りにくい逸品だ。彼女はそのクッキーにあっさり屈服した。
 それから三日に一度ほどの割合で、カレンの部屋の前に差し入れが置かれることになった。しかもみな、有名店の焼き菓子だったり他国の珍しい練り菓子だったり一粒いくらの高級チョコレートだったり。
 ただ黙って受け取るだけでは申し訳ないので、ときおりカレンはその送り主に手紙を書いたりお返しにクッキーを焼いたりした。カレンの趣味はお菓子作りなのだ。もちろん高級菓子とは比べ物にならないが、そこは気持ちというものである。自室の前に置いておくのは心もとなかったが、実際次の日にはなくなっているので、受け取ってもらえてはいるのだろう。
 最近のカレンの関心事は、もちろん、この差し入れの送り主である。カレンの部屋を知っていること、頻繁にここを訪れることができることから、まず間違いなくこの城で働いている者だということがわかる。
 父か兄の差し金かとも疑ったが、それでは面白みがない。第一、カードの文字は父や兄とは違う筆跡である。


 その日、カレンはグリフォードの部屋へと急いでいた。
 他の事務官から預かった書類が緊急の資料だということで、グリフォードのもとへ届けなければいけなかった。
 近衛隊は軍隊とは別編成の組織で、選りすぐりの精鋭ばかりだが、隊長のヒースケイドを筆頭に総勢二十六名となっている。隊長以外に、副隊長や小隊長といった役職は用意されていない。しかし、一隊員であるグリフォードがこうも重要視されるのには理由がある。
 彼の実力は近衛隊員のなかでも群を抜いており、隊長ヒースケイドを凌ぐとも言われている。いかんせんその性格が災いし、隊長の座を逃したとの専らの噂だ。確かに統率力、支配力をもって比較すると、ヒースケイドに軍配が上がるのは当然といえるのかもしれない。
 カレンがグリフォードの部屋への最後の角を曲がろうとしたとき、同じく角の向こう側にいた誰かに衝突した。
 カレンは軽くしりもちをつき、相手は持っていた書類をバサバサと取り落とした。
「も、申し訳ありません……!」
 慌ててカレンは落ちた書類を拾い集める。目を上げるとその相手は貴公子ウィーダリオンで、カレンは羞恥に顔を赤く染めた。
 拾い上げた一枚の紙を手に取ったとき、カレンの動きがはたと止まった。
「どうかしたのかい?」明るい金髪をさらりと揺らし、ウィーダリオンは屈み込む。
 その距離に気づいて、カレンはさっと飛びのいた。目を逸らしたまま紙を差し出すと、彼は静かに受け取った。
「あの、その文字は、ウィーダリオン様の手によるものですか?」
 おずおずと尋ねたカレンに、妙なことを訊く、というようにふっと笑んで、ウィーダリオンは答えた。
「そう、私の字だよ。珍しいのかな、ありふれた筆跡だと思うけど。私の兄も、良く似た字を書くよ」
 カレンは首をぶんぶんと横に振ると、失礼します、と言い置いて逃げ去った。
 どうも、差し入れのカードに書かれていた筆跡と似ていたように思ったのだ。
「遅くなりました……!」
 グリフォードの部屋へたどり着くと、カレンは勢い込んでドアを開けた。普段はもう少し礼儀正しく入室するのだが、ウィーダリオンと話していた所為で時間をロスし、焦っていたために段階をすっとばしてしまったのだ。
「カレン、入室の許可を得てから開けなさい」
 案の定、静かだが硬い声で叱責を受け、カレンはすくみあがった。
「申し訳ありません……」
 謝罪の言葉を告げてカレンは顔を上げ、室内に隊長ヒースケイドがいることに気がついた。さっとカレンの顔が青くなる。隊長が手に持った書類を見やれば例の資料だ。書類を届けるのが遅れた上、カレンはまさにその会議のさなかに踏み込んでしまったのである。
「失敗は誰にでもある。次からはこういうことのないようにな」
 とお優しい隊長がその大きな手でそっと頭を撫でてくれ、
「少し遅れたが、資料はもらっておく」
 と常より目を鋭く細めた直属の上司がカレンの手から書類を取り上げた。


 まただ。またやってしまった。
 今日の業務を終えたカレンは、とぼとぼと自室に向かった。
 少しもミスの減らない厳しい現実に、カレンはいかに自分が甘やかされたお嬢さんであるかを思い知った。
 誰かに叱られたいと思った。罵ってくれればいいと思う。でも、隊長は溜息を落とし貴公子は苦笑し上司は目を眇めるばかりだ。なんといたたまれない。
 思わず、目にじわっと涙が浮かんだ。目じりをごしごしこする所為で前を見ていなくて、カレンは兵舎を出るあたりで誰かにぶつかった。
「すみません……」
 見上げた相手は、隊長ヒースケイドだった。
「どうしたカレン、元気がないな」
 その深い声がすっと身に沁みて、カレンは瞬きを繰り返す。
「自信がないんです、私、なにをやってもミスばっかりで。駄目なんです」
「逃げるのか」優しかったヒースケイドの目が、すうっと細くなる。「おまえはまだ何もやってはいないだろう。不慣れなことはわかっているし、ずっとこの仕事を続けろとも言わない。だが、おまえには三ヶ月の義務がある。あとたったの二ヶ月だ。死に物狂いでやってみろ」
 そしてカレンは、ヒースケイドの後ろにグリフォードが立っていることに気がついた。
 彼はいつものように、じっと黙ってカレンを見ている。
 ヒースケイドの視線とグリフォードの視線にカレンが粉々になりそうになったとき、隊長は静かに立ち去った。
 カレンの顔は青ざめていた。足元を見つめたが、自分の靴とグリフォードの靴があるばかりだ。
「気に病むな、ヒースは怒っているわけではない」
 静かな声音が、意外な台詞を吐いた。カレンは顔を上げ、初めてグリフォードと視線を合わせた。
 カレンの瞳がおどおどと泳いでいるのに対し、グリフォードの瞳は凪いだ海のように少しも揺らいではいない。
「カレン」
「……はい」カレンはこくりと息を呑む。
「君が辛いなら、担当を替えるから言いなさい」
 カレンは、返事をすることができなかった。


 自室のドアを閉め、そこにもたれてカレンは床にずるずると座り込んだ。
 胸の中が、砂でも詰まっているようにきしきしと痛む。
 ヒースケイドはカレンを叱らなかった。グリフォードも同じく。カレンはただ諭された。
 彼らは待っているのだ。カレンが自分で立ち直るのを。
 昔から、知らないこと、できないことが怖くてただ避けていた。慣れないこと、知らない人が怖くて人の後ろに隠れていた。でもそれで、何ができるようになっただろう。
 ヒースケイドの言うとおりだ。カレンはまだ、何もしてはいない。
 これは、いろんな人や物事から逃げてぬるま湯に浸っていた自分に、兄がくれたチャンスではないか。
 やっと、やっとカレンは、そう思った。
 なによりカレンを揺さぶったのは、ヒースケイドの言葉ではなく、グリフォードの態度だった。隊長の言葉は、真実を貫いているがゆえにカレンの心を深く刺した。それだけならば、カレンはくじけてしまったかもしれない。ヒースケイドを恨んだかもしれない。
 だが、グリフォードは隊長の言葉に倣いはしなかった。
 彼がカレンに退路を示したがために、カレンは踏みとどまる気持ちになったのだ。
 不思議なことに。
「わかってるけど、でもやっぱり、ちょっと辛いなあ……」
 ぽつりとカレンが呟いたとき、部屋の外でコトンと音がした。
 いぶかしんだカレンがドアを細く開けると、そこには見慣れた紙袋が置いてあった。
「差し入れの人だ」
 かさりと袋に手を差し入れ、カレンはいつものカードを取り出した。そこにはいつものように「カレンへ」と書いてあるはずだ。その文字にいつも安堵することをカレンは思い出した。いつもの筆跡でそれは書いてあった。
 ――辛いときは泣くといい、と。
 カレンの咽喉がくっと詰まった。
 そうだ、まだ自分はきちんと泣いていなかった。ぺしゃんこになって、惨めな気持ちで我慢を募らせていた。どうしてそれを解放しようとしなかったんだろう。いっぺん泣いてしまおう。そしてちゃんとやり直そう。
 カレンは感謝した。
 ただ、一人静かに泣かせてくれる、カードの主に。


 その日、カレンが図書館に行くと、いつもの静かな雰囲気とは違って、なにやら慌しかった。
「ルゥエ、入ってもいいの?」
 貸し出しカウンターに顔を覗かせると、司書官のルゥエは頷いた。
「はい、ただ、いまは本棚の整理中なんです。棚を固定してないところが多いので、気をつけてくださいね」
 是の返事をして、カレンは奥の本棚へと引っ込んだ。読んでいたシリーズの続きを読みたいのだが、前は貸し出し中だったため、返却されているかと見に来たのである。視線をやると、上の方に目当ての本が見つかった。
 カレンは手を伸ばしたが、小柄な彼女は高さが足りず届かない。左手で棚の縁をつかみ、右手を思い切り伸ばして背伸びをすると、指先が目当ての本を掠めた。もう少し。カレンは左手に力を入れ、身を乗り出すようにした。
 ずっ、と本棚が動いた。
 そのまま本棚はカレンへと倒れ掛かる。固定していない棚が、カレンの重量で傾いたのだ。
「きゃあっ!」
 大量の本がバサバサと降り注ぎ、ドシンとすごい音がした。
 おそるおそる目を開くと、黒い服がカレンに圧し掛かっていた。誰かがかばってくれたのだ。
「無事か」
 低い声の主を見て、カレンは悲鳴を押し殺した。
 黒い髪。鋭い瞳。広い肩。立ち上がると、見上げるほどの大男。
 カレン直属の上司、グリフォードだった。
 いかに心動かされることがあったとはいえ、怖いものは怖い。
「あ、ありがとうございます……」
 そろそろとカレンは、グリフォードの手の届く範囲から逃げ出した。
「あの、グリフォード様はご無事でしたか?」
 無事どころか、棚はグリフォードの背中を直撃しているのであるが。しかしグリフォードはこう答えただけだった。
「いや、大丈夫だ」
 しばし。沈黙が吹き荒れた。カレンはブリザードの瞳から逃れたくて、必死に話題を探した。
「あの、何かお礼を」たいしたことはできませんが、とカレンは消え入るような声で提案する。
「……では、今朝君が隊員の者に配っていた、手作りの焼き菓子とやらを」
「え」
 カレンはしばし呆けた。なんと言った、いま、このブリザードは。菓子。
「グ、グリフォード様は、甘いものはお嫌いかと思っていました……」
「好きなんだ、甘いものは。女の趣味もな、甘ったるい――そう、君のような」
「えっ」
 カレンはさらに一歩飛びのいた。なんだ今のは。告白か。
「なにもしやしない。そう怯えないでくれ」グリフォードは苦笑して、軽く手を振った。「甘いものが好きなことは、人には言うなと言われている。威厳を損なうからと、弟が」
「弟君、ですか」
「知っているだろう、ウィーダリオンだ」
 返す言葉も失ったカレンに、グリフォードは淡々と語る。自分は側妻の子で、家を継ぐのは正妻の子のウィーダリオンだということ。弟は自分を慕ってくれていて、大量の菓子はいつも彼が買ってきてくれるのだということ。
「あああああの、もしかして、いつも差し入れしてくださっていたのはグリフォード様……」
「私だ」グリフォードは居心地悪そうに頭をかいた。「君が慣れぬ業務に疲れているようだったので、激励のつもりだったのだが、思いのほか喜んでくれたのでやめられなくなってしまって」
 カレンは、世界三大椿事を目撃したと思った。照れた顔のグリフォードなど、見たことも聞いたこともない。それ以前に、こんなにしゃべること自体が珍しい。
「……君の兄君と父君に、君にプロポーズする許しをいただいてもいいだろうか」
「だだだ駄目です」
 なんてことを言い出すのだこの男は。嬉々としてゴーサインを出すに決まっているではないか。それよりも、やっぱりさっきのは告白だったのか、とカレンはこっそり苦い溜息をついた。
――そうか、では君に直接言うことにする」
 そう答えたグリフォードの手が、カレンのそれに触れた。
 その後の展開は、神のみぞ知る。

<了>


あとがき
novel

2007 07 08