夢だ、と思っていた。
幼くなった掌を開いたり閉じたりしながら、友衛は己の指先をじっと見つめていた。
いまや酔いは完全に醒めた。
滑り台の天辺に小さく収まりながら、この期に及んで会社の近くにまで戻ってしまうとは、と自分を嗤った。無意識だった。呆然とさまよい歩き、足が選んだ目的地がここだった。この身がどうであれ、自分が帰属しているのは会社であり、社会であったのだ。
この姿で会社の屋上になど上れないから、滑り台の上に上った。
この身に相応しい、と再び友衛は苦笑した。
少しだけ、空の近くに行きたいと思ったのだ。星を眺めながら、この胸に宿るのは憎悪だろうか、と思ったがやはり違う。星はいつもの星だった。憎悪でも焦燥でもなく、刷り込みのように星を眺めずにはいられなかった。
子供に戻りたい、と呟いたような気はする。
流れ星を見たような気もする。
分不相応な願いは、叶って初めてそうと知るものだ。
愕然とした。これはなんだ、と思った。しかしどうにもできるはずはなく、友衛は滑り台の上に座っているしかない。
「どうしたの?」
突然かけられた柔らかい声に、友衛ははっと振り向いた。
見下ろした先には、社内一の無愛想女、江東莢子がいた。
やっぱり夢だ、と思った。
江東は、莢子、としか名乗らなかった。友衛がフルネームを名乗らなかった所為だろう。
だから友衛は莢子さんと呼ぶほかなかった。妙な心地も照れもなかった。もしかしたらそれほどに、自分は落胆していたのかもしれない。
子供に戻りたいと思っていた。
幼い頃はすべてが輝いていて、世界は知らないことだらけで、毎日が夢のようだった。毎朝目が覚めるたびに、快い高揚感が幼い身体を満たしていた。年をとるたびに、小学校から中学校、中学校から高校へと新しい社会に入るたびに、思い通りにならないことが増えていった。なんでみんな、それを呑み込んでいけるんだろう、なんでそれが平気なんだろうと思っていた。
社会人になって、それが顕著になった。新社会人の一年目はまだまだ慣れないことも多くて、いろんなことが新鮮だった。しかし次第に、慣れない上下関係、理不尽な叱責に溜息をこぼし、なによりも毎日続く単調な繰り返しが苦痛だった。交友関係は広がる一方だし、処世術もそれなりには知っている。でも、なにかが違う、と思っていた。理想と現実は乖離するばかりだ。
世界はこんなにも退屈だったろうか。いつの間に退廃してしまったのだろう。
世界の秘密だとまで思っていた夜と星。身体だけ子供に戻ったところで、あの頃の無垢な瞳は返ってはこない。今夜の空はやっぱり、味気ない都会の空にしか見えなかった。
唐突に馬鹿馬鹿しくなった。やっぱり夢なんじゃねえの、と思った。
だから莢子に、本当のことを冗談めかして告げた。
くだらないと鼻で嗤うかと、寝ぼけてんじゃないのと言われるかと思った。
――嘘だ、と言って欲しかった。
しかし、自分のもくろみは失敗したらしい。莢子の頬を伝う涙を見て、友衛はぎょっとした。一瞬、思考が停止した。
いったい、自分は何を見ていたのだろう。
莢子が泣く生き物だったのだと、思ったことがなかった。同僚のことなのに、何も知らなかった、知ろうともしなかった。普段から残業が多い莢子は、今日も帰りが遅かった。彼女一人に仕事が押し付けられているわけではないから、きっと、作業スピードが遅いのだろう。でも莢子は弱音も吐かず、いつも、黙々と丁寧に仕事をこなしている。そういえば、昼食もいつも一人だ。
あまり言葉を発しないのは引っ込み思案だから。仕事に手を抜かないのは真面目だから。そう考えると辻褄が合う。乏しい表情に気をとられず考えると、莢子は普通の、大人しい女の子だった。
知らず傷つけたことがたくさんあるんじゃないかと思う。莢子はいつだって何も言わない。
突然脳裏に降って沸いた真実に、目眩がした。
わかりやすい事実にしか目を向けられないなんて、まったくガキの思考だ。いままで、どれだけたくさんのことを見過ごしてきたのだろう。自分が雲を踏むような夢の世界にいる間に、現実はどれほど変わってしまったのだろう。
世界が自分を拒絶したんじゃない、自分が世界を拒絶したんだと知った。
こんな頼りない女の子ですら、現実を生きている。夢の世界の住人には、涙を払ってやる資格すらない。
誰もが現実を生きている。夢のような世界に未練を覚えながらも、なにかを諦めた分だけ、なにかを手に入れる。そうして少しずつ、新しい世界と折り合いをつけていくのだ。世界は刻一刻とかたちを変えてゆく。
それに気づけなかった自分を恥じた。
ひとりになりたかった。消えてしまいたいと思った。みっともない自分を思い切り蔑みたくて、そして憐れみたかった。
だから、莢子の前から逃げ出した。これ以上、虚勢を張っていることはできなかった。
流れ星に意思があるとするならば、友衛を選んだのは至当のことだったろう。彼は夢の世界に、流れ星の奇跡を信じる世界に生きていた。この奇跡を振り払うとするならば、現実を取り戻さなければならない。
本当は、そのことに薄々感づいていたと思う。
――星を見上げてこの胸に宿ったのは、喪失感だった。
「あ、またニンジン残してる」
莢子は友衛の皿を指差し、声を上げた。
「食うよ食う、食います」
きっぱり宣言し、ええいままよとばかり友衛はその赤い物体を口に放り込んだ。他のものと一緒に食べちゃった方が最後に残すよりいいのに、と莢子がおかしそうに呟く。
最近、莢子の表情が読めるようになった。
口の表情があまり出なくても、その大きな瞳は充分に彼女の気持ちを表していると思う。真正面からじっくり目を見つめたことがなかったので気づかなかった。もっと顔を上げればいいのに、と思う。
ふと目の前のテーブルに置かれている手を握ってみた。莢子はぎょっとしたように友衛の手を引き剥がそうとする。しかし力とサイズがあまりにも違いすぎて、振りほどくことなどできない。
「ちょっと、木村くん」
空いた方の手で口元を押さえ、くっと笑みを堪える友衛を見て、からかわれていることに気づいたらしい。莢子は魅力的な上目遣いを見せたかと思うと、もう知らないとばかりに横を向いてしまった。
そうだ、もっと怒れ、もっと笑え。
笑いながら友衛は、もっと大人になりたいと思っていた。
目の前の頼りない女の子が、どこで泣いていたって気づけるように。
<了>
2007 02 16