終着点にはまだ遠い

「ゆーぎっ」
 囁いて、瀬良せら由木ゆぎの頬をつんとつつくと、由木はついとそっぽを向いた。
「信っじらんない、なんでなんで瀬良が隣に座ってんの、だいたいいままでこの講義で見たこともないしっ」
 目を合わさぬまま言い切った由木に、瀬良はにやりと笑いかけた。
「俺、この講義とってない」
「じゃあなに? どういうつもりなのっ」
 由木は振り向いた。
 講義が終わった直後とはいえ、まだ室内に人が少なからず残っている。息を荒げながらも、由木は大声を抑制していた。
「だから、返事」
 涼やかな顔で言い放った瀬良に、由木の顔が別の意味で赤く染まる。
「……だから、それは、もうちょっと冷静に考えようと」
「冷静じゃなくていいから、言って」
 ――なんで俺はこんなに由木を手に入れたいんだろうな。
 強引に迫りつつ、どこか沈着な頭で瀬良はそう考える。
 そもそものきっかけは、中学生のときだった。
 前後の脈絡は覚えていないが、漏れ聞いた会話で、由木が瀬良のことを「子どもらしくない」と言ったのだ。それが当時の瀬良には妙にショックで、知らず由木のことを気にかけるようになった。
 確かに由木は、人にそうと言えるほど子どもっぽかった。天真爛漫で素直で我侭で、自分にすら嘘をつくことができない。瀬良はなぜだか由木から目を離すことができなかった。そのうちに由木がやたらと危なっかしい言動をすることに気づいて、目を離せない理由がすりかわってしまったが。
 思い切って告白すると、「瀬良、つまらないからやだ」という一言で粉砕されてしまった。確かに、いまだに由木が手の平を返すことはできないと言うほどに、痛烈な言葉だったと思う。
 だが瀬良は、やっぱり由木が欲しいのだ。
 由木が自分のどこがいいのかとやたら気に病んでいるので、瀬良はそもそもの話をしてやった。
 すると由木は、「そんなことで?」と目を丸くした。
 当時、自分が一部の女子から「大人っぽい」と囁かれていたことを瀬良は知っている。しかし、たぶん自分は無理をしていたのだ。無理をしてでも大人になりたかった。そのことを、由木は本能で見抜いたような気がした。たとえ真実はどうあろうと、瀬良はそう思ったのだ。
 由木は、中学時代、瀬良に違和感を覚えたが、高校時代に振り返ればそうは思わなかったと言う。それは、由木の価値観が変わったということなのだ。中学時代は中学生らしく、高校時代は高校生らしく、そして次第に嘘やずるも覚えていったのだろう。
「俺は、それをすごく健全なことだと思う。正直、由木が羨ましい」
「それ、自分は親が離婚した所為で不健全だとか不幸だとか言ったらぶっ飛ばすからね」
 息巻いた由木の言葉がなぜだか嬉しくて、瀬良は思わず由木を抱き締めた。
 自分は人より早く終着点に着こうと特急で飛ばして、大事な駅をたくさん通り過ぎてしまったのだろう。だから、いまから鈍行に乗り換えても遅くはないと思う。
 たとえそれがどんなに遠くとも、ひとつひとつステップを踏み越えていくことが大事なのだ。
 それを由木から教わったと思った。
 とりあえずは、たったいまできた引っかき傷もはずせないものだ。と思ってみる。
 由木を手に入れるためにはどれだけのステップを踏まねばならないのだろう。
 怒って逃げ去った小さな背中を眺めながら、やっぱり瀬良は微笑んでいた。

<了>


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2006 11 21