孤独なレトリック

思音しおんさん、お届けものです」
 ふぁさり、と目の前に差し出された花束。
「要らないって言ったのに……」
 泣き腫らした目のまま、うっかり私はそれを受け取ってしまった。さっきの、疲れるほど元気な色の花束とは裏腹に、目に沁みるような白がとても優しかったから。
 この若い配達人は先程も花束を持ってきた。それは私の従兄からだった。結婚してしまうお兄ちゃんから、大事な妹分の誕生日にと。それは、私の恋心にだめ押しの止めを刺した。
 ほろほろ泣いてしまった私を見て、このお兄さんはそれを代わりにもらってくれたのだ。
 お兄さんは優しい目をしてにっこり微笑んだ。
「これは、おれから差し上げます。誕生日おめでとう」


「みーおーくーんー! ちょっと聞いてよー!」
 私は、町でばったり友人の実緒みおくんを捕まえ、そこらの飲食店に連れ込んだ。
「なんだ、やけに元気だね。こないだは、失恋したわー! って大泣きだったのに」
 おっとりな見かけに寄らずとんでもない笑い上戸のこの青年は、失礼にもすでに口の端が緩んでいる。
「実緒くんって配達屋さんで働いてたよね?」
 テーブルを挟んで座っている彼に、私はじりっと顔を寄せた。
「そ、だけど?」
「それがさあ、最近ちょっと気になる人ができてさ、それが配達のおにーさんなのよ! 背が高くて、目元涼やかで、黒髪で髪が長くて後ろでくくっててさ。知らない?」
「……それ、該当する人がどんだけいると思ってんの」
 はたと我に返った。それもそうだ。現に、目の前にいる実緒くんも見事な黒髪をしている。
「えっと……ええっと、私の働いてるケーキ屋さんの向かいの通りにね、花屋さんがあるんだけどさ、そこでよく花を買っていくのよね。確か、そこのおねーさんが、麗良つぐら、って呼んでたような気がするんだけど」
 それを聞いて、くっ、と実緒くんは笑いを洩らした。あははははは! と盛大な笑い声を上げたあと、ひーひーとお腹を押さえるという、とんでもなく失礼な態度を繰り広げている。
「や、やめといたほうがいいと思うな。あの人、恋愛する気ないから」
「なによそれ」
 やっぱり知ってる人だったんだ、と思いながら、私は実緒くんをじろりと睨む。
「言葉通りの意味だよ。遊びだったら付き合ってくれると思うけど、思音、そういうタイプじゃないだろう?」
 私の恋は、またも前途多難なようだ。っていうかあの人、遊び人なわけ?
 実緒くんは笑いを収めると、頬杖をついて私のことをじっと見つめた。
「思音、本気ならなにも言わないけど、半端な覚悟で手を出すなよ」


 麗良さんはしょっちゅう花を買っていく。
 その姿を、私はケーキ屋のガラスの向こうにいつも見つける。
 彼は花屋のお姉さんとやたら仲睦まじく、その親密さはまるで夫婦のように年季が入っていた。だから私は、お姉さんに会う口実に花を買っていると信じて疑わなかった。
 しかし、どうも違うらしい。
 麗良さんはいつも特定の女の子に花を買っていくのだ。そのときの彼の表情は、とても幸せそうで嬉しそうだった。
 だからつい私は、こんな想像をしてしまう。
 彼の想い人は絶対に叶わぬ相手じゃないのかな。だから、その本命以外には本気の恋ができないんじゃないだろうか。
 でも、人の気持ちは変わるものだ。私は、とりあえずは彼に近づけさえすればいいと、甘美な思いに酔っていた。
 その日は早めに仕事が上がり、私は揚々とケーキ屋を出た。向かいの花屋に麗良さんがいることを確認して、私はこっそり聞き耳を立てた。
「いらっしゃい。今日はどの花にする?」花屋のお姉さんは、ほわんとした声で微笑む。
「今日は最愛の美人さんに持って行くんだけど。あの人の好きな花、どれだっけ?」
 それを聞いて、私はがつんとショックを受けた。まだ本命がいたのかお兄さん!
「黄色とか橙とか、やたら元気な色の花が好きだったよねえ。特別に豪華にしておくから、私の分もよろしく言っておいて。今日は仕事、抜けられないんだ」
 のんびり言いながらもお姉さんの手はくるくると動いて、プロポーズ用みたいに豪勢な花束がたちまち出来上がった。
 それを受け取って、麗良さんは歩き出す。
 私は思わずそのあとをついていってしまった。
 大きな夕日が橙の光を落とし、長く伸びた麗良さんの影が私の足元にまで届く。その影の動きがぴたりと止まった。目を上げると、大きな花束を肩に担ぎ持った麗良さんが、呆れたようにこちらを向いて立っていた。
「なんの用ですか、思音さん?」
 私はかあっと頬を赤らめた。名前を覚えていてくれたこと、尾行が見つかってしまったことに――そしてなにより、自分の卑劣な行為に。
――あの、私、あなたのこと知りたいんです」声が震えているのが自分でもわかる。私は逸る胸を押さえた。「いつもの花、誰にあげてるのかな、って。その花、誰に持って行くのかなって。好きな人へ、ですか?」
 それを聞いて、麗良さんは困ったように笑った。
「一緒に来ますか?」


 そろそろですよ、と麗良さんが口にした。
 町の外れまで来て、辺りに家は少なくなっている。私だってこの町の住人だ。どこへ向かっているかの見当がついた。だって、この先にあるのは、
 ――墓地。
 そこへ着いて、麗良さんは慣れたように目的の墓石まですたすたと近づいた。どうしてよいかわからず突っ立っている私を後目に、麗良さんは片膝を付く。
「久しぶり、おれの美人さん。かすみも実緒も元気にしてるよ。――あの子も」
 静かな墓地に、麗良さんの乾いた声がよく通る。私はその中に聞き捨てならない名前を発見し、思わず声を上げた。
「実緒、って、あの実緒くんですか? 配達屋さんの?」
「ああ、なんだ知ってるのか」振り向いた麗良さんは、他人行儀な姿勢を崩して破顔した。「おれの弟」
「き、兄弟、ですか」
 なんだそれ、実緒くんも教えてくれればいいのに。まあ聞いたからどうということはないけれど。
「これはおれの母さんの墓。いつもの花は妹に買っている。――この解答で満足?」
――あ、あのっ! じゃあ花屋のおねーさんが本命ですかっ!?」
 ぶっ、と麗良さんは吹き出した。そのまま顔をそむけ、くっくっく、と堪えきれない笑いが洩れる。ああやだ、実緒くんに笑い声が似ている。
――いくらおれでも、妻帯者に手を出す気はないが」
「さい、妻帯者」ってことはですよそれはもしかして。「……男の人……なんですか」
「そう、見えないけど。ちなみにおれの実の兄」
 びっくりした。あの人男だったのねってことに。いや、世間って狭い、ことにかな。
「あの、それで」
 言葉を口にしかけた私を、手を上げて麗良さんは遮った。
「悪いけど、おれはあなたの期待には応えられない」
「……どうして」
 泣き出しそうな私の声を聞いて、麗良さんは、ふーっと大きく息を吐き出した。
「いまのおれは妹が第一優先で、それ以外のことにあまり気持ちや時間を割く気がない。妹を独り立ちさせるまで、あなたは待てるのか? 結婚の確証もないまま、何年も? 気持ちが途中で変わったらどうする。そのとき、それまでに費やした時間を後悔しないと言えるのか?」
 硬い声だった。この人はいま、私の幼稚な思いに真剣に応えている。それが、ずん、と心に響いた。それは、いまの私には受け止め切れないほど重かった。
 ――私には、覚悟が足りない。
――よく、わかりました。お手数かけてすみません」
 深くお辞儀をして、顔を上げた私は精一杯笑ってみせた。


 さすがにあのあとまで居座る気はなかったから、私は一人で墓地からの道を帰った。
 いまは誰にも会いたくない。きっとひどい顔をしている。
 そう思ったのに、現実は優しくしてはくれない。通りの向こうから、見知った顔がこちらに来るのが見えたのだ。
「……実緒くん」
「思音」
 実緒くんはきょとんとした顔をした。私が墓地の方向から来たのが意外だったのだろう。
 そのまま平気な顔をして立ち去ればよかったのに、緊張の糸の切れた私は実緒くんにすがり付いてしまった。
「実緒くーんー、ふられちゃったよー。実緒くんのお兄さんだけあって容赦ない」
 実緒くんはふうと息を吐いた。
「……だから、やめとけって言ったのに。つぐ兄、いまは妹のことだけしか考えられないから。僕がやっと手が離れたから寂しいんでしょ、しわ寄せが下にいっちゃってるんだよねえ。上の兄貴が、そんなに思いつめることない、って結婚しちゃったのがより悪かったみたい。じゃあおれも、って自由に恋愛すればいいのに、じゃあおれが面倒見るしかない、ってもう頭カチカチになっちゃって。真面目ってこういうとき損だよね」
 私に何もしゃべらせないかのように淡々と語る声が響く。私はそれが辛くなってしまった。
「……実緒くんのばか」
「なに?」
「なんで怒んないの。手を出すなって言ったのはさ、軽々しい気持ちでお兄さんに近寄ってほしくなかったからでしょ。お兄さんを煩わせたくなかったんでしょ。ぜんぶ、私の所為なのに」振られた瞬間も我慢していた涙が、こんなときにぼろっと溢れた。「なのに、なんでそんなに優しいのよお」
 実緒くんの手が、よしよしと頭を撫でた。
「つぐ兄のため、っていうのは嘘じゃないけど、思音を泣かせたくなかったから」
 実緒くんの顔が傾いて、すうっと近づいてくる。目じりの辺りに、生温かい感触がした。
「ぎゃっ」
 慌てて私は飛びのいた。ちょっと、いま、舐めたー!
「よし、泣き止んだ」実緒くんは満足気だ。「思音って、落ち込んでるときに優しくされるの弱いでしょ。大方、従兄に惚れたきっかけもそうじゃないの」
 なに、その笑いは。心臓の音がばくばくとうるさい。
「ほ、惚れっぽいのってよくないかな」
「いいんじゃないの。そういう思音は生き生きしてるから嫌いじゃない」
 帰るよ、と言って実緒くんは私の手を引っ張った。
 実緒くんの掌はひんやりとしている。
 私の熱が移りそうな気がした。

<了>


あとがき
novel

2006 07 27