猫被りの遭遇率

 本を抱えたまま、ルゥエは階段を上っていた。
 両腕の中に積み上げられているのは、金の縁取り、エンボスの題名、美しい装丁の本である。ただし重い。姫オーレリアンにと選んだはいいが、ここまでしか候補を絞れなかったのだ。
 ルゥエの身体が上下するに合わせて、栗色の前髪が揺れる。
 本の重さは苦ではなかった。彼女は王立図書館を管理する司書官の一人で、本を運ぶことは日常茶飯事である。
 ルゥエが考えていたのは、ずり下がってくる丸眼鏡が難儀だということだった。
 軽く腕を捻って、肩に眼鏡のつるをこすり付けることでそれを直そうとする。しかし案の定失敗し、階段上に本が散らばった。
「あっちゃー……」
 呟いて、ルゥエは慌てて本を拾い集める。傷んでいないか一冊一冊確かめて安堵の息を吐いたルゥエは、表紙をゴシック・パープルの制服の裾で拭いていく。彼女にとっては本が第一であり、制服が汚れることなどは瑣末なことだった。
「それ、上まで運ぶのか?」
 唐突に声がかけられ、ルゥエは緊張で固まった。
「は、はい」
 声の主を確信しながら、立ち上がったルゥエはゆっくりと振り返る。
 そこにいたのはやはり、近衛隊員のティオだった。おろおろするルゥエには頓着せず、すっと近寄ったティオは、彼女から本の束を取り上げる。
「あのっ、ティオ様……?」
「リアの部屋までだろう?」
 ティオはなにを驚いているんだという様子で片眉を上げると、背を向けてそのまま歩き出した。


「姉さぁああん!」
 バターンと背中で扉を閉めるなり、ルゥエはミナに突進した。しかしルゥエには本を落とす気など毛頭なかったため、抱きつくどころかただの体当たりとなる。
「ルゥエ、姫様に失礼よ」
 姫付きの女官ミナは、妹の情熱を受け止めつつ静かにたしなめる。その声に、ルゥエははっとした。
「も、申し訳ありません姫様!」
「で、今日はなにがあったのかしら?」
 慌てて向き直り深くお辞儀をしたルゥエに、オーレリアンは椅子の上で足を組みつつにやにやと笑った。
「本を、運んでくださったんです! 片手でひょいって……じゃあなくて、姫様、ご所望の妖精譚です!」
 誘導尋問とも言えない促しに簡単に引っかかったルゥエは、顔を赤らめつつ慌ててごまかし、机の上にドンと本を積み上げる。堪えきれないオーレリアンは、身体を二つに折ってげらげらと笑い出した。
「あー、おっかしい。ティオのどこがいいのかしら」
「意地悪ですね、姫様」
 ぶすっとしたルゥエに、ミナは溜息をついた。
 二人はほぼ毎日のように、このやりとりを繰り広げている。オーレリアンは臣下に嫁いだため、本来ならば城を辞しているはずなのだが、頻繁に帰ってくるのだ。そのため、彼女の部屋は嫁ぐ前そのままに残されている。もともと溺愛している弟のジェイディアードに会うためだったが、最近ではルゥエをからかうことにその目的を摩り替えていた。
 それを避けるため、扉の前で泣く泣くティオを追い帰したルゥエの努力は無駄だったようだ。
「でも姫様、近衛隊は選び抜かれた精鋭ばかりですから、決してティオ様が劣っているということはありませんよ」
 さりげなく、ミナは妹をフォローする。
「そうね、でも、ヒースやウィードより断然弱いじゃない?」
「姫様、隊長クラスと比べないでください!」
 またも礼儀知らずなルゥエが噛み付き、室内は再びオーレリアンの笑い声で満たされた。


 ルゥエがティオに惹かれるのは、多分にジェイディアードの影響もあった。
 弱冠十六のルゥエは、ジェイディアードにとって比較的歳の近い友人である。一緒にいる機会も多く、自然オーレリアンの話題と共に、彼女の乳兄弟であるティオの話題も出される。
 彼は、姉であるオーレリアンが――乳兄弟だから同い年ではあるが――兄としてティオを尊敬していることもちゃんと見抜いていて、いいようにルゥエの耳に吹き込んでくれるのだ。
「ところでルゥエはどうして、ティオの前ではあんなに大人しいんですか?」
 単刀直入なジェイディアードの質問に、並んで廊下を歩いていたルゥエは思わず床に突っ伏しそうになった。
「で、ででで、殿下……!」
 訊かないでくださいオーラを全身に纏わせつつジェイディアードを振り向いたルゥエだが、彼のつぶらな瞳にあっさり完敗した。
「あの、このようなこと、殿下のお耳に入れるのは心苦しいんですが、私、聞いてしまったんですよ」
「なにをですか?」
「ティオ様が姫様のことを『好みじゃない』と言っておられたんです。ですから、騒々しくすると嫌われてしまうのではないかと」
「猫被りなんですね」
 ふふふとジェイディアードは笑った。嫌味ではなく、覚えたての言葉を嬉々として使うかのように。
「姫様には負けますけどね!」
 堂々と言ってのけたルゥエは、姫様には内緒ですよ、と人差し指を口元に当てて、にっこり微笑んでみせた。


「あっ、殿下、見つけましたよ!」
 ルゥエは頭上を指差した。その先、木のてっぺんには灰色の子猫が震えている。
 この猫はジェイディアードのお気に入りで、名は瞳の色からとってブルーという。ちょっと目を離した隙にどこへ行ったかわからなくなり、ルゥエは彼の頼みで一緒に子猫を捜していたのだ。
「ブルー、ブルー」
 ジェイディアードは囁くように呼びかける。しかし子猫は反応は見せるものの、降りてくる気配がない。
「あの、殿下、降りられなくなっているのではないですか?」
 ルゥエがそう声をかけると、ジェイディアードは泣きそうな顔で彼女を振り仰いだ。僕が助けに行きます、と木の幹にしがみつくジェイディアードを、ルゥエは必死でなだめる。彼に怪我をさせるわけにはいかない。それは、彼が世継ぎだからというだけではなく、ルゥエがこの小さな王子を愛しく思っているからだった。
「大丈夫ですよ、殿下。このルゥエが参ります」
 ジェイディアードは喜ぶどころか、ますます眉を八の字にした。女性に危険を冒させるわけにはいかないと、幼いながらに強く思っていることは明白だった。しかしそれを遮るように、ルゥエはにっこりと笑ってみせる。
「私、田舎育ちですから、木登りは得意なんですよ。最近ご無沙汰だったので懐かしいです。それにここだけの話、こんな機会でもないと、宮廷の木になんか登れませんからね」
 それを聞いてやっと、ジェイディアードに笑顔が戻った。


 幸いにも、司書官の制服は木登りの妨げとはならなかった。上衣の裾がいくらか長いものの、スカートがびらびらに広がっているわけでなし、それなりに動きやすかったのだ。
 袖で眼鏡をこすりつつ、ルゥエは慎重に上を目指した。ごつごつした枝の手触りに、思わず笑みがこぼれる。ジェイディアードに語ったとおり、久しぶりの行為は軽い昂揚感をもたらした。
「ブルー」
 子猫を脅かさぬよう、そっと呼ぶ。なにしろ、子猫のいる枝の先は人の体重を支えきれないほど細く、ルゥエがそこまで行くことはできない。伸ばした腕に飛び込んできてもらわないといけないのだ。
 なんとか子猫を抱き取ったルゥエは、ほっと安堵の息を吐く。
「殿下、すぐに降りていきますね!」
 いそいそと木を降り始めたルゥエだが、子猫を抱きながら、というのは案外難しい。そのスピードにうんざりしたのか、自力で降りられる高さになると、子猫はルゥエを蹴飛ばしてジェイディアードのもとへ駆けていってしまった。
「え、ブルー? うわ、きゃあっ」
 子猫を捉まえようと慌てて手を伸ばしたルゥエは、上衣の裾を枝に引っ掛けてバランスを崩し、足許を踏み誤って転落した。
 訪れる衝撃を予期して恐怖に固く目を瞑るが、鈍い衝撃音が聞こえたのみ。いつまでも痛みがやってこないのでおそるおそる開けたルゥエの目に飛び込んできたのは、至近距離にあるティオの顔だった。
「ティ、ティティティ、ティオ様!?」
 偶然通りがかったティオが、ルゥエを抱きとめてくれたらしい。掌の感触や体温が、痛いぐらいに伝わってくる。立てるか、との言葉にルゥエがこくこく頷くとやっと、ティオは彼女を地面に降ろした。
 止まっていたルゥエの脳はようやく回転を始める。この事態を幸運だと思う気持ちはもちろんあるのだが、ここにティオがいるということはつまり、はしたなくも木に登っていた挙句、大声を上げて落っこちたところをばっちり目撃されたということで。
「も、申し訳ございませんー!」
 いやあああ、と叫びながら、ルゥエは脱兎のごとく逃げ出した。


 結局、逃亡先を思いつかなかったルゥエは、オーレリアンの部屋に飛び込んだ。
「姫様ぁあああ!」
 今度はなにがあったかと含み笑いを滲ませたオーレリアンだったが、ルゥエの半泣きの顔を見てそれを引っ込める。
「ルゥエ、どうしたの?」
 心配げな顔のオーレリアンに、ルゥエは一部始終をぶちまけた。
 やっぱりオーレリアンは盛大に馬鹿笑いをした。
「『好みじゃない』発言に意味はないわよ。単にティオは私のことを妹にしか見れないって言ってるだけでしょう。そもそも、ルゥエの猫被りって思いっきりばれてると思うんだけど」
「えええええ!」
 ルゥエは目を丸くした。脳の処理能力を完全に超えている。頭を抱えてしまったルゥエに、
「ティオが何人の猫被りと付き合いがあると思うのよ。私だってもう十年以上それに付き合わせているわけだし。ルゥエのぐらい見抜けると思うんだけど」
 無駄な努力でした、とオーレリアンは笑う。
「意地悪です、姫様。もう、姫様なんて――
「嫌い?」
「……いえ、好きですよ」
 ――本当にもう、自分はこの姉弟の笑顔には敵わない。
 照れ隠しに笑みを見せ、やっと落ち着いたルゥエは息を吐いたが、そこに新たな急襲が訪れようとは想像だにしなかった。
「リア、そこにルゥエがいるな!?」
 ノックの音と共にティオの大声が降る。あれだけ派手に逃げていたのだから、さぞかし目撃情報も多かったことだろう。ひええ、と叫んでルゥエは隠れるしかない。
 オーレリアンの返事を待たず、無情にも扉は開け放たれた。
「あら、ティオ、不敬罪ものよ」涼しい顔のオーレリアンに、
「なにが不敬罪だ。おまえ、絶対に楽しんでいるだろう」ティオは苦い顔。
 ばれた? とオーレリアンは舌を出す。
「逃げた子猫はテーブルクロスの下にいるわ。お好きなように」
「先に幸せをつかんだ奴は余裕だな……」
 軽口の応酬のあと、オーレリアンは楽しげに退室した。残ったのはティオだけである。
 落ち着く時間も必要と思ったか待っていたティオだったが、一向にルゥエが出てこないので、痺れをきらしてテーブルの下に潜り込む。
「こら、逃げるな」
 引きずり出しかねない勢いのティオに、ルゥエは真っ赤になったまま固まっているしかない。
「おまえな、追ってくれと言わんばかりじゃないか」
「そそそ、そうですか?」
「顔中に『自惚れろ』と書いてあったけど」
 ルゥエは座ったままじりじりと後退するが、壁際に追い詰められるばかりである。手を伸ばしたティオは、おもむろにルゥエの眼鏡を取り上げた。
「ティ、ティオ様、それがないと見えません」
「どのぐらいの距離ならはっきり見えるんだ?」
「えーと、このぐらいですか」
 指一本分の長さほど顔を近づけたルゥエに、すかさずティオは唇を重ねた。
「猫被りとは一生縁が切れなさそうだ」とティオはにやりとする。
「きゃああああーっ!」
 一秒ほど遅れて絶叫したルゥエは、ティオの顎に拳を叩き込み、驚異的な速さで逃げ去った。
 どうあってもしばらく、眼鏡を取り返しに行けそうにない。
 不便さを思ってルゥエは嘆いたが、むしろオーレリアンの餌になることを憂えるべきかも知れなかった。

<了>


あとがき
novel

2006 02 20