手の中の星

 柱の陰から、天晶てんしょうはそっと翠晶すいしょうを盗み見た。
 いつの間にこんなに大きく育ったのだろう。初めて会ったときは細身だったし、同年代の男の子と比べるとむしろ小さな方だったと思う。毎日のように見ていたから、変化に気付けなかったのだろうか。
 肩が大きくて、骨太な感じ。肉体労働に従事している所為か、程よく引き締まり日に焼けている。特に、首の後ろから腰にかけてがぐっと締まっていた。肩をまわすと、背筋(はいきん)が動くのがわかる。
「なにしてんだ、おまえ」
 少し視線を外した隙にふっと頭上に影が差して、翠晶が天晶を覗き込んでいた。
「なっ、なに」
「伝票」
 毛を逆立てた猫のように警戒する天晶に、翠晶は紙片を差し出した。うん、と視線を斜め下に落としながら、天晶はそれを受け取る。それを処理するのが天晶の仕事だ。
「なに隠れてんだよ」
「べつに」
 つんと素っ気ない天晶に、翠晶は気を悪くする素振りもない。咽喉の奥で笑って、天晶の頭を乱暴に撫でた。
「もう、なんなの」
 わわっと天晶は暴れた。そんな彼女を、翠晶はにやにやと意地の悪い顔で見守っている。いままでそれなりに天晶に構ってくれた翠晶であるが、このようなスキンシップはあまりとった覚えがない。
「いや、面白いと思って」
「いじわるだ」
「いいだろ、ちょっとぐらい仕返しさせろよ」
 翠晶は楽しそうだ。ちょっとしたことで天晶が過剰反応するのが、面白くて仕方がないらしい。
「仕返しって、なに」
 訊かなければいいとわかっているのに、天晶は尋ねてしまう。単に混乱しているのか、知らぬところで恨まれているのが嫌なのか、それは自分でもよくわからない。
「おまえに、散々もてあそばれた仕返し」
「もて……っ!?」
 何を言っているのだ。もてあそんでいるのは翠晶の方だと思う。現に今も、天晶の心臓は上がったり下がったり、ひどく忙しい。
 翠晶はその大きな両手で、天晶の頬を引き寄せた。顎から耳の下まで、硬い指の感触がすうっと伸びる。目が合って、頭の奥でちかっと散った火花が痺れた。
 翠晶の口がゆっくりと動くのがよく見えた。
「結婚して、って毎日迫られたり」
「うっ」
「いきなりキスされたこともあったなあ」
「うぐっ」
 ――残念なことに、それは事実だった。
「そっ、そんなむかしのこと、忘れた!」
 天晶は、翠晶の手を引っ掻きながら足を蹴って、拘束から抜け出した。


 外の仕事に翠晶を放りだしてから、天晶はぐったりと机に突っ伏した。
 出会ったのは何年前だったろう。いつの間にか、双方共に大人になってしまった。
 もう子供ではない。違う生き物なのだ。天晶と翠晶は違う生き物になった。
 天晶は、熱くなった頬をごしごしとこすった。翠晶はわかっていない。やっと精神年齢が追いついた天晶に、遅い思春期が訪れただけだと思っている。
 いまとなっては、なぜあそこまで子供っぽい態度を取り続けたのか、と思う。
 きっと、無意識に大人になることを拒絶していたのだ。時間が進まなければいい、止まってほしいとずっと願っていた。なにも変わらないでいてほしかった。
 それなのに、その時計の針を翠晶が動かしてしまったのだ。
 そのことを彼はわかっていない。天晶がどんなに救われたか、どんなに彼のことが好きか、そんなことこれっぽっちもわかってやしないのだ。
 知っていたつもりの『好き』では少しも足りなかった。
 翠晶の優しさが『好き』で嬉しかったからキスをした。『好き』すぎて苦しいから、嫌われるために結婚を迫った。そんなもの、まだふわふわとして形のない『好き』に過ぎなかった。
 だって、もうあんなこと出来る気がしない。あんなことをした自分が信じられない。
 そんなこと、もう、しようと思っただけで心臓が止まってしまうのに。
 泣いてしまう。
 翠晶の目にうつるだけで、名を呼ばれるだけで、触れられるだけで、泣いてしまいそうになる。
 立っているのも苦しいほどなのに、そんなこと、翠晶には全然わからないのだ。


 翠晶が、天晶のことをどう思っているのか、彼女は知らない。
 それに関する返事をもらったことがないからだ。
 キスをしたときは、流された。どうやら無かったことにしたらしく、その後話題に出ることもなかった。――いまになって、からかいの種にされていることはともかくも。
 プロポーズについては、「返事しない」と言われた。天晶にはわかっていないからだと。それを言う機微も、意味も、望みも、何もかも足りないからだと。
 ――本当に、そうだった。
 半端な覚悟で口に出せる言葉ではない。あのときは単に、翠晶を繋ぎとめる理由として――もしくは繋ぎとめない理由として――出しただけだったのだ。あのとき、天晶の時計は止まっていたから、何度だって口に出せた。
 でも、もう針は動き出してしまったのだ。
 ――翠晶のぜんぶをくれだなんてそんな言葉、もう二度と口に出せはしない。
 たとえ振られるためだとしても、もう言えなかった。きっと、口にした瞬間に望んでしまう。願ってしまう。それが恐ろしくて、天晶は何も言葉に出来ない。
 だって知らなかったのだ。傍にいるだけでうるさく跳ねる心臓も、触れられるだけで背中に走る痺れも。顔を見るだけで、じわじわと胸に溜まっていくなにかも。
 大人になるってどういうことなのかわからない。どこを向いて歩いていけばいいかわからない。
 針を動かした翠晶を恨めればよかったのに。ただ好きなだけだった。
 だから天晶は、翠晶から逃げることしか選べなかった。


 貰い物のクッキーを、袋に小分けにして、テープをぺたっと貼る。
 余った一枚をさくっとかじりながら、天晶はその袋を目の前に持ち上げてううんと唸った。
「……実緒(みお)兄ちゃん」
「うん?」
 内勤仲間の兄に声を掛け、天晶は兄の机にとさとさとさとクッキーの袋を積み上げた。
「これ、みんなに配ってほしいんだけど」
「自分で配れば? 前はそうしてたでしょ」
 僕は別に皆にそこまでしてやる気はないんだよね、と言って実緒は袋の一つを開けた。クッキーを取り上げ、さくりとかじる。
「初々しいねえ、我が妹ながら」
 そう言うと、実緒はけらけらと笑った。天晶が何に躊躇しているのかわかっているのだ。
「兄ちゃん優しくないー」
「知ってるくせにぃ」
 実緒は兄の中では一番、天晶に対する甘さがない。次男の麗良(つぐら)が甘々なだけに、釣り合いが取れているとも言える。
「最近避けてるんだろう。いいんじゃないの、ちょっとぐらいしゃべったって」
 う、と天晶は声を詰まらせた。どうしていいのかわからなくて、この頃、天晶は翠晶の視界に入らないように逃げ回ってばかりいる。
「ただいまー」
 そのとき、どやどやと外勤組の連中が帰ってきた。その気配を察知して、天晶はいち早く給湯室へと逃れている。
「なに」「クッキー?」実緒の机に目を留めたらしい声が聞こえた。「欲しけりゃ持ってって」と実緒はどうやら雑な配り方をしている。
 声がある程度()けて静かになったのを見計らって、天晶はそっと顔を覗かせた。連中は車体の点検等に散っていったらしい。
「……おかえり」天晶は、麗良つぐらが帰っていることに気付いて声を掛ける。
「おう」兄は、実緒の袋からクッキーを失敬して口に放り込んだ。
 天晶の机の上には、連中が置いていった伝票が散らばっていた。椅子に座り、天晶は伝票をとんとんと揃える。
「まだ顔合わせてないのか」
 麗良の声に、天晶は肩をぎくっと強張らせた。そっと兄の顔を見ると、彼は売り上げの資料をめくりながら、机に軽く腰掛けるようにしていた。こちらを向いてはいない。
 うむ、む、と天晶が口ごもると、麗良は手を伸ばして彼女の頭を撫でた。長い指が、さらさらと優しく天晶の髪を往復する。翠晶の撫で方とは違うな、と天晶は思う。
「……良いやつだぞ」
「え」
 そういう返しをされるとは思わなかった。それは実緒も同じだったらしい。
「ええ、いっがーい!」
「なんだ」
「近づくなと言っておいてやる。とか言いそうじゃない、以前のつぐ兄だったら」
「おれを何だと思ってんだ」
 麗良は軽く舌打ちして、資料を実緒の机に返した。
「おれは、天晶をいつまでも籠に閉じ込めておくつもりはないんだ。大人になるまではおれが守ってやるつもりだったが、一人前になったなら他のやつに任せたって構わん」
 そんなこと考えてたんだ、と実緒は目を見張った。
「良かったねえ、過保護やめるんだって」
「そこじゃないだろ」
 兄はじゃれている。


 屋台で買った夕食をぶら下げて、天晶は家に帰った。
 ご飯を済ませると読書をして、その後少しうとうとした。
 ふと目が覚めると外は真っ暗だった。一部屋だけつけた灯りが灯台のように思える。
 一人だな、と思う。天晶はいつも独りだったし、いつも暗闇に居た。兄たちが灯りを連れてきても、それはいつか消えてしまうものだった。そしていつか、未来に、灯りを連れてこなくなる日が来る。それを知っていた。それでも生きていけたはずなのに。
 独りは嫌だ。暗闇は嫌だ。そう思わせた翠晶を、天晶は恨みたかった。
 まぶしくてせつないその人を、遠ざけようとしたのに。翠晶はそれを許さなかった。暴いて、慰めて、そして放り出した。どうすればいいのかは教えてくれなかった。
「……詰めが甘いんだよね」
 そんなに頭が良いわけじゃないから。――天晶はそっと呟いて、苦笑した。
 トントンとノックの音がした。ご近所さんかな、と思って玄関に出る。
「はーい……?」
 ドアを開けた途端、ぐっと開かれて、大きな身体が滑り込んでくる。その後ろでガッチャン、とドアの閉まる音がやけに響いた。町の灯がたちまち遮られ、目の前に立っているのは大きな影だった。
「よう」
「……翠晶」
 ぐいぐいと家の中に入ってこようとする翠晶を両手で抑えながら、天晶はおろおろと辺りを見回した。
「おっ、お兄ちゃ」
「今日は遅くなるんだろ、知ってる」
 兄を召喚するぞ、という脅し文句も使えない。うう、と天晶は唸った。
 無遠慮にずかずかと入り込んだ翠晶は、居間のソファにどっかりと座り込んだ。
「な、なんの用」
「おまえが、用があるんじゃないかと思って」
 警戒してソファの前をうろうろする天晶を、翠晶は余裕ありげに見上げる。
「な、ないもん。帰ってよ」
「今日は、泊まっていけって言わないのか?」
 ふっと笑う翠晶を前に、うぐ、と詰まって天晶は足を止めた。いちいち、むかしの過ちを掘り起こさないでほしい。
「ほら、座れよ」
 翠晶は、自分の隣をぽんと叩いた。それは確かに誘惑で、天晶はおずおずと近づいてゆく。
 ソファの端にぽすっと体重を掛けたかという頃合いで、腕を引かれた。突然、翠晶の膝に載せられ、ぎゃっと天晶は猫のように暴れる。
「暴れんな」
 天晶は、易々と両腕を抑え込まれた。
「ばっ馬鹿じゃないの!? 翠晶なんて、き、きら――
 ――言えなかった。その言葉を口にしたら、身体の中でぶつかり合ってこの身を粉々に砕いてしまいそうだった。
 乾いた手に頬を抑えられる。熱い手だった。
「……おまえ、泣き虫になったな」
「翠晶のせいだもん」
 隠し切れない涙がぼろぼろと零れた。こんなの、告白しているのと変わりない。どうすればいいのかわからない。翠晶の熱が心地好くて、すがってしまいそうなことが怖い。
 翠晶の目がすっと細まった。天晶の頬をするすると撫でて、顔を上向かせる。
 ――あ。と思った途端、吐息がふっとぶつかって、唇が重ねられていた。なみだの味がした。
 軽く下唇を食まれ、触れていた唇が離れた。
「なっ、な、え――あ」
 言葉が出ない。何をした。何をされた。痛いほど心臓が打っている。灯された熱に脳が灼けそうだった。
「か、帰ってよ」天晶は泣きじゃくった。「もうやだよ、怖いよ、これ以上知りたくない」
――なにも怖くないだろ」
 ぎゅっと抱きしめられて、つらくなる。その熱を、やわらかさを、やさしさを知るのが怖い。手放せなくなるのが怖い。
 だって、誰も教えてくれなかった。こんな気持ちも、どうしたらいいかも。
 翠晶だって、怖い気持ちだけ教えて、放り出すのだ。
「だって」
 天晶は怯えた。震えた。ただ、闇雲に翠晶にすがりついた。
「だって、わた、私のものじゃないの、に」
 ――私のものじゃない。翠晶は、私のものじゃない。
「……泣くな、欲しけりゃくれてやる」
 耳元に震えた声に――え、と、呼吸が止まって、世界が止まった。
「欲しくないなら、くれてやらねえぞ」
 天晶は、顔を上げて、翠晶の服の裾を握り締めた。声を出そうとして、出なかった。言葉に出来ないのに、指をほどけなかった。
「な、なんで」
 わからない。夢だ。これはきっと夢なんだ。
 翠晶は、夢みたいに優しかった。
「……言っただろ、望むなら答えてやるって」
 ――本当に望まない限り返事をしないというのは、そういう意味だった。
 言えよ、と翠晶の手が触れる。耳を寄せるように、頬を寄せられた。
 ――どこかで螺子の音がする。
 天晶の内側で、キリ、キリと螺子が巻かれていく。
 止まった時間はもう一度動くのだ。
 息を吸って、天晶は口をひらく。
 世界が動き出す音がした。

<了>


novel

2018 11 23