星のなみだ

 天晶てんしょうと知り合ってから、四年の歳月が流れた。
 そのことをなんとなく実感できないのは、天晶が相変わらずお子様だからだった。背も伸び骨も伸び、体格からして一回り大きくなった翠晶すいしょうとは対照的に、天晶は相変わらず細っこくひょろっこく、背だけはわずか伸びたものの、長い髪をさらさらとなびかせ色気も風情もなくへらへらと笑っている。
 いつまでこれのお守りをしなきゃなんねんだろ、十九にもなって、と翠晶は今日も相変わらずの嘆息だ。
 そんな翠晶の心中など知らぬとばかり、同僚の久羅くらようは絶妙というか微妙というかのタイミングで翠晶をからかってくる。
 今日も久羅は、いつも翠晶にべったりの天晶を話題に出し、羨ましげに息を吐く。
「なんであの、紅一点の! わっかい! 合格点の! 女の子がおまえにご執心なわけー」代わってくれよう、とすり寄る久羅に、
「じゃあ、代わってくれよ」
 と翠晶は大真面目に応えた。
 本気も本気、大本気だ。しかし翠晶の性格からして、懐いてくる小動物をすげなく扱うこともできず、天晶の兄の麗良つぐらの目を考えると、理由なく切り捨てることもできない。ゆえにこの関係がずるずると不毛に四年間も続いている。
 当の天晶が、邪気もなく素直に翠晶に懐いてくるあたりが致命的だ。
 翠晶が痛む頭を抱えていると、三人でだべっていた休憩室にふらりと天晶が現れた。
 どうやらもらいもののクッキーをおすそ分けに来たらしい。少しずつ包んだ物を一人一人に手渡し、翠晶の前に来たところで、満面の笑みで爆弾を落としていった。
「で、君はいつ私と結婚してくれるのかなっ?」
「はいはい、その話題のデリケートさと、そのあたりの機微がわかるようになってからもっぺん言いに来い」
 さらりと流した翠晶に、むむ、と少しばかり不機嫌な顔をして、天晶は来たときと同じくふらりと戻って行った。
 直後訪れた静寂を、見事にぶち壊したのは、言うまでもなく久羅と曜だ。
「ちょ、なんだいまの!?」
「おまえらそういう関係だったわけ!?」
 騒ぐ二人を横目に、翠晶は今しがたもらったばかりのクッキーをさくりと咀嚼した。
「あれはなあ、天晶の最近のブームなわけ。意味なんかないぞ」
 数を重ねれば、段々とありがたみは薄れてゆく。
 初めて言われた際の、うっかり一瞬ときめいたおれの純情を返せ、と翠晶は胸の中で涙ながらに呟いた。


 もういいかげんこの歳になれば、不用意な言動が恐ろしい誤解を招くということを学習してもいいころだろうに、天晶は相変わらずである。
 おかげで、翠晶は憧れの麗良から、冷たい視線をもらってしまうのだ。踏んだり蹴ったりである。
 麗良にとっては大事な妹だ。おれの妹の魅力がわからんのかとも、おれの妹に手を出すなとも言われかねない。さもありなんというところである。
 天晶の悪ふざけのプロポーズの所為で、対麗良用に、断っても角が立つ、受け入れても針のむしろという事態を回避するために、翠晶は受け流すという技を身に付けた。とても嬉しくない学習の成果である。
 そんなこんなで天晶が飽きるまで綱渡りの日々を余儀なくされた翠晶だったが、その日が来る前にある出来事が起こった。
 その日は職場で親睦会があり、翠晶らは総出で酒屋に繰り出した。
 とはいえ、天晶は家でお留守番だ。こういった多人数の集まりは好まないのか、そういう会の場合、ほとんど天晶は出てこない。加えて、兄弟と翠晶以外に、べったり懐く相手は相当限られているため、なかなか懐かないと難易度の高さが嘆かれている。野生の小動物の餌付けとほとんど同レベルに語られるのが常である。
 店内はいい具合に騒がしく、いい具合にみんな出来上がっている。
 店の娘に酌をせがみ、酔った勢いで口説いている連中の中で、比較的黙々と手酌を嗜んでいる翠晶は、別の意味で目立つらしい。
 酌の合間に寄ってきた娘たちが、逆に翠晶を口説きにかかる。
「ま、君、若いのに落ち着いた風情でいいわね。こんどお姉さんと遊ばない?」
「そうやって店に金を落とさせようという魂胆でしょ、ご遠慮します」
 翠晶があっさり受け流せるのは、からかっているのが丸わかりだからだ。加えて、ここのところの翠晶はその手のスキルが上がっているのである。
 しかし、受けようと流そうと、ほかの連中の目に留まることには違いない。面倒な酔っ払いがからんでくることを予期して、苦笑した翠晶は視線をふと店の戸口へと外した。
 そこに、意外な人物が立っていることに翠晶は気がついた。
 天晶である。
 慣れない場所で居心地悪そうに身を固くしているが、翠晶と目が合った瞬間、彼女は音もなく逃げ出した。
 声をかける間もなかった。立ち去る前も後も、店の喧騒には変わりなく、ほかに気づいた者もいない。天晶がいたというそのことが、一瞬の瞬きの間に潜んだ夢であったかのようだった。
「えっと、今日は疲れたのでそろそろ帰ります」と翠晶は上着を引っ掛けて立ち上がる。
「え、おまえもう帰んの?」と声を掛ける曜に、
「悪い。気が乗らね」
 小さな声で返して、翠晶は店を後にした。


 駆けるのが癪で抑えた足取りは、けれどやはり常よりは速度を速めていた。
 我ながら信じられないが、翠晶はなぜか天晶を追っている。去り際の様子があまりに気にかかったからだ。
 彼女が店にやってきたのは、気が変わったか、兄の様子を見に来たか、もしくは兄を迎えに来たのだろう。天晶と同じ職場にいる二人の兄は、留守番の彼女を心配して、たいがい一人は先に帰るのだ。
 兄が見当たらずに心細いのならば、とりあえず翠晶に声を掛けるのではないかと当の彼は思っていた。よその娘と一緒にいるところを見れば、これは自分のものだと、独占欲を発揮して袖を引っ張りにくるぐらいのことはすると思っていた。
 しかし天晶がしたことといえば、逃げるようにその場を去ることだけだった。
「天晶!」
 夜道に明るい色の髪を前方に認めて、今度こそ、翠晶は残りの距離を駆けた。
「なに?」
 足を止めて振り向いた天晶は、いつもの通りふてぶてしく、小首を傾げて無邪気な様子を崩さない。あの一瞬の、酒場での態度はなんだったのかと思うぐらいだった。
「おまえ、いつも集まりに来ないのは、一人になるからか? 兄ちゃんたちがいなくなったあとの予行演習をしてんのか?」
 自分でも思いがけない言葉が、翠晶の口から滑り出した。口にして初めて、自分がそれを疑っていたことを知った。
「なにそれ、どういう意味かな?」
 天晶はいつも通り、無邪気に返す。しかし、目は笑っていない。
「おまえはいつも、一人になったあとのことを考えてる。……ちょっと違うな、おまえの思考の基準が一人でいることを前提にしてるんだ。いつか言ったよな、家を出なきゃいけないのかって。おまえはずっと、それを考えてたんだろ。おまえが出て行かなくったって、兄ちゃん達が結婚すればいつかは取り残されるんだ」
「……それを私に思い知らせて、翠晶はなにがしたいの?」
「なにも。ただ確認してるだけだ」我ながらなにをしているんだろうと思う。天晶を追い詰める意味も、気づかないふりをしない義理も、翠晶には存在しないはずだ。「おまえがおれに執着してるのは、家族が欲しいからだろう。いつか、出て行ってしまうことを前提としない誰かが欲しいだけだろう」
「そうだよ! それのなにが悪いの!?」天晶の声が怒りを帯びて、震えた。「そうだよ、だから、結婚してくれればいいのに!」
 それを口にする意味。結婚して結婚してと、翠晶を追い詰める意味は。
「おれは返事しないぞ。おまえが本当に、その言葉の意味をわかっていてそれを望まない限りは」そして翠晶は意地悪げに笑んでみせた。「おまえの望む言葉なんて、吐いてたまるか」
――翠晶の馬鹿! 大っ嫌い!!」
 激昂した天晶の本音が見えた。
 そのまま顔をそむけ逃げようとした天晶の腕を、翠晶はつかんでその場に押し留めた。
「なに……」
 振り向いた天晶の頬には涙が光っていた。見られたからにはもう隠そうとはせず、天晶はぐずぐずと洟をすする。
「そんな状態で夜道に一人ほっぽり出せるわけがないだろ。送る」
 そう言って、つかんだ腕を解放するか束の間迷ったが、結局翠晶は手をつなぎなおして、夜道を歩きだした。
 本音を言えば、少し動揺していた。天晶の足場を揺すぶっていることは理解していたが、まさか泣くとは思わなかったのだ。彼女はいつも巧妙に本音を隠していて、怒鳴ったり、泣き喚いたり、感情を顕わにするということがなかった。
「馬鹿だな、勝手になんでもかんでも捨てるなよ」
 ひとり言のように呟いた言葉は、ちゃんと天晶の耳に届いていて、それでも彼女は、うう、と泣き声のような唸りを上げるだけだった。
 さすがに四年もの付き合いがあれば、翠晶にだって天晶の思考は読める。天晶はそれなりに我が侭な子供だったので気づきにくかったが、継続的な願いや、相手の感情を欲しがるようなことは口にしたことがなかった。こんど、とか、ずっと、とか一緒にいてとか私を好きになってとか、そういったことは端から諦めていたのだ。
 天晶はそういう子供だった。
 だから、したくもない期待をして、持ちたくもない願いを抱いて、天晶は途方に暮れたのだろう。兄達は結婚すれば家を出ていく。だから、最初から期待など持たずに済んだ。でも翠晶はそれとは違う。望めば――どうなるだろう。
 だから、天晶は結婚の二文字を出して翠晶を追い込んだのだ。尋常の神経を持っていれば、一足飛びに結婚を持ちだされても戸惑いか嫌悪しか感じないだろう。すんなり受け入れることなど、ないと言っていい。だから天晶は、期待するのが怖いから、待つのが辛いから、翠晶に拒んで欲しかったのだ。さっさと、諦めるための口実が欲しかったのだ。本当は、もう――嫌われてしまいたかったのだろう。二度と期待なんてしないために。
 それが、翠晶の癪に障った。勝手に期待して、勝手に諦めて、勝手に自己完結されても気分が悪い。
 それだけのことだ。
 家の前まで連れて行っても、天晶はまだ泣きの余韻を引きずっていた。というよりは、きっちり泣けなかっただけだ。家に入ったら入ったで、兄の前で泣くわけもないだろうから、無理矢理我慢するだけだろう。
 そう思って、翠晶は天を見上げて嘆息した。まったく、本当に、自分は甘い。
「ほら」と翠晶は天晶を向き直らせて、胸に彼女の顔を押し付けた。
「ふえ?」と天晶が疑問を浮かべて暴れるのは、見ないふりをした。
「泣きたきゃ、ちゃんと泣いていけ。胸ぐらい貸してやる」


 窓から、朝の光が燦々と降り注いでいた。
「……あ?」
 身を起して、翠晶は見慣れぬ部屋を見渡し、眠い瞼が開ききるのを待つ。横に天晶の姿を見つけ、翠晶は合点した。
「……ああ」
 思い出した。泣いてすっきりしたあとの天晶に、泊っていけと言われ、うかつにも不覚にも、翠晶は頷いてしまったのである。まだ不安定そうな様子が気にかかったからだったが、どうやら杞憂のようだった。既に翠晶に心意を知られてしまっているのと、思い切り泣いたことで気が落ち着いたのだろう。
 自分は兄と一緒に寝るから部屋を使えと言われ、一人で寝付いたのだが、寝ぼけたか何かした天晶が、こちらのベッドに潜り込んできてしまったらしい。まだ覚醒しきっていないのかよっぽど意識していないのか、目覚めた翠晶は天晶を見て、そういうこともあるだろうと、年若き青年にあるまじき薄い感想を抱いた。
「おい、挨拶の一言ぐらいはないのか」
 一足先に目覚めていたらしい天晶がじっと黙っているのを見て、翠晶は欠伸を噛み殺しながら声をかける。
 その途端。ずりずりと天晶はベッドの上を後退して、壁に背中をぶつけた。
「お、おは、よう」
 様子が変だ。心なしか、声が上ずっている。
「なんだその態度。まさかいまさら、意識してるとか言わないよな?」
「だっ、だって!」
 一歩詰め寄ると、天晶は悲鳴のような声を上げて飛びのいた。
「だってだって、いままでそんなこと考える余裕なんてなかったんだもん。ちょっと落ち着いて考えたら、あれ? ってなって。出会ったときは少年、って呼んでたし実際そうだったし、背は私より高かったけど体格はそこまで違ってなかったし。なんかいままでその延長線上のつもりだったっていうか情報が書き換わってなかったっていうか!」
 つまりは、ここへきて突然、翠晶は子供ではなく男性だということに気がついたらしい。
「ふーん。いまさら?」
 意地悪げな笑みを浮かべて翠晶が迫ると、ふぎゃ、と声を上げて天晶はまた一歩逃げた。
 ここまで狼狽した天晶は珍しい。
 普段振り回されている意趣返しに、翠晶はついからかってやりたくなる。
「じゃあ、思い知ってもらおうかな」
 軽く引き寄せてから肩を押すと、天晶の身体はあっさりとベッドに沈み込み、いとも簡単に押し倒された。
 しかし、翠晶の悪ふざけが過ぎたのか、次の瞬間、天晶は最凶の切り札を切った。
「おっ、お兄ちゃあああん!」
 数拍の間の後、その辺に潜んでいたのかというぐらいの早さで、部屋のドアが音を立てて蹴り開けられた。
 ――麗良つぐらである。
「お、おはようございます……」
 唐突にフリーズした翠晶の思考では、それ以上状況にふさわしい語句は検索できなかった。
 覚悟はできてんだろうなあ、と麗良は一歩、また一歩と恐怖の足音を近付かせる。
「ぶっ殺す」
 そして翠晶は、麗良の宣言通り、地獄を見たのであった。

<了>


novel

2010 02 15