幸福論

 よく晴れ渡った午後だった。
 ティオはオーレリアンの隣に腰を下ろしながら、ガタゴトと馬車に揺られていた。御者は、穏やかな顔をした小柄なおじさんだ。
 馬車は険しい山道を音を立てて走ってゆく。
 ティオは我知らず、深い溜息をついた。山向こうの村まで、オーレリアンの付き添いに行った帰りの道である。よい交易品がないか覘きに行ったのだが、オーレリアンは頻繁に出歩きたがるので、その都度ティオが御守に付く破目になる。それならば夫のヒースケイドが付けばいい、と思わないでもないが、近衛隊の隊長である彼が、そう頻繁に職務を放棄するわけにもいかず、王族であるオーレリアンを供も付けずに放り出すわけにもいかない。
 必然、オーレリアンの乳兄弟であるティオに白羽の矢が立ってしまうのである。その都度、何度ルゥエとのデートをキャンセルさせられたことか。当のオーレリアンは、ならば一人で行くと笑って言うのだが、彼女の兄を自任しているティオは見過ごすこともできなかった。
 まったく別の者に任せることも考えられないでもなかったが、普段は本性を隠しているオーレリアンがのんびり羽を伸ばすこともできない、と思うとそこで行き詰ってしまうのだった。
 まったく、とんだ貧乏くじだ。結構、自分は不幸者ではないかと思ってしまうティオである。隊長にいびられ先輩にからかわれ訓練生にはなめられ恋人からはそこまで思われているのか心もとない。
「うわ、俺って可哀想」思わず口を付いて出た。
「なにが?」
 流れる景色を楽しんでいたオーレリアンがそれを聞きとがめ、ティオを振り向いた。
「いや、俺っていろいろ二番手以下なのかと思って。ルゥエですら、デートの予定がつぶれても、姫様との用事なら優先させてください! だもんな。あいつ絶対、俺よりおまえの方が好きだぞ」
「人徳の差ね」うふふと笑ってみせたオーレリアンは、「だってしょうがないでしょう。建前を言えば一国の姫を優先させないわけにはいかないわよ」次いでしかめっ面をした。
「いや、それはわかってるけどさ」
 答えつつ、ティオは己の様相を振り返った。女性と仲良くなるのは得意だが結局はいいお友達で通り過ぎ、訓練生には懐かれるが彼らの尊敬の念はティオを飛び越して隊長や先輩に注がれる。不幸な経歴が頭をもたげそうになり、ティオは慌てて思考に蓋をした。
 ティオは顔をしかめつつ、オーレリアンとは反対側の隣を見やった。先ほどから肘や足先が飛んできて痛いのだ。ティオ達とだいたい同じ年のころの若者が二人、仲が悪いのか先ほどから盛大な喧嘩を繰り広げているのである。口喧嘩は次第にエスカレートし、時おり手が出るようになっているようだ。
 ただでさえ狭い馬車内、しかも開閉式の扉がないので、椅子から滑り落ちると自然、外に投げ出されることになる。オーレリアンは面白そうにその喧嘩を眺めているが、ティオは内心気が気ではなかった。彼の嫌な予感はよくあたる。
「てめえっ!」
 予感は的中し、外側にいた方の若者がいきり立ってもう一人を押し倒しにかかった。馬車の中ですったもんだを繰り広げられ、迷惑なことこの上ない。その勢いでどんどんと外側に押し出されにかかったティオは、背中でオーレリアンを弾き飛ばしてしまう。
――リアっ!」
 急カーブを曲がる勢いに振り回され、オーレリアンは外に投げ出されようとしている。
 咄嗟にティオは手を伸ばし、引き寄せた彼女の頭を抱え込んだ。


「っい、てぇ……っ!」
 自らの軟弱さと情けなさを痛いほど自覚しているティオは、遠慮なく苦痛のうめきを洩らした。
 きつい山道が災いし、二人は馬車から投げ出された勢いで崖下に放り出されたのである。
 意識が朦朧とし、全身に強い痛みを感じる。四肢を投げ出したままの状態で、おお、痛てえ、と再度呟くと、そのティオの顔をオーレリアンが心配そうに覗き込んだ。
「……リア、怪我は?」
 尋ねると、彼女はゆるゆると首を横に振った。手足にかすり傷はあるようだが、ティオがかばったおかげで大事は免れたようだ。
 目顔で起こしてくれと訴えると、オーレリアンはゆっくりとティオを起こしにかかった。
「肩が、はずれてる、みたいだな」
 どうやら左肩が脱臼している。そして途中にあった枝でも刺さったのか、脇腹が軽くえぐれていた。なんとか上半身は起こしたが、腹に力を入れると激痛が走るため、立ち上がることはできそうにない。
 ティオは冷静にいまの状況を分析した。ここはひと気のない山中で、道もない崖下だ。上から見ると木の茂みに隠されてしまうため、馬車に乗っていた連中が助けを呼んでくるにしても、正確な場所を把握しづらい。自力で助けを求めに出るのが一番の早道だろう。
「リア、誰か呼びに言って来い」
 ティオは、オーレリアンに冷徹に告げた。彼女は心得たとばかり、スカートの汚れを払って立ち上がる。非情なことを頼んでいることは、双方が理解していた。このまま森をさまよっても道なき道に迷うばかり。となれば、少しでも登りやすいところを探して崖をよじ登るしかないのだ。その足で山道を抜け、どこかで馬車を拾い、助けを呼んで戻ってくる。かなりの強行軍である。しかし夜になれば急激に気温が下がる。ティオの体力も心もとないため、夜道に惑わされる前にいますぐ出発しなければならないのだ。
――わかった、行ってくる」
 体温が下がるから寝ちゃ駄目よ、とオーレリアンは上着を脱いでティオに着せ掛けた。踵を返そうとする彼女に、ティオは、リア、と静かに呼びかけた。
「一緒にいるのがおまえでよかったよ」
――そう、私もよ」
 ふふ、と笑んで、オーレリアンはどこか登れるところを探して歩き去った。
 これから、じっと夜が更けてゆく恐怖に耐えねばならないが、ティオの胸の中は安堵に満ちていた。一緒にいるのが恋人でなくて、本当によかったと思った。ルゥエと一緒ならば、置いて行くことも行かれることもできなかっただろうと思う。情が勝ちすぎてしまう。
 生まれてからいままで一緒に育ち、これ以上もないほど理解しあった二人だからこそ、相手に全ての荷を預けることができるのだ。
 ティオは助けを待ちながら、そっと上着の前をかき合わせた。


「ティオ、聞こえるー? 起きてる!?」
 崖の上でランプの灯りがゆらゆらと揺れ、オーレリアンの声が下までよく通った。
 太陽は先ほど姿を隠し、月がゆらりと立ち上ってきた時刻だ。
「起きてる」
 ティオは大声で返したが、相手に届いているかはわからない。腹の傷がじくじくと痛んだ。
 上から話し声が聞こえる。どうやら、オーレリアンが連れてきたのは近衛隊長のヒースケイドと隊員のグリフォードだ。話し声は、この道を迂回するかどうかで揉めているようだった。いくら馬術に優れた二人だとはいえ、この崖をいきなり馬で駆け下りるのは至難の業だ。しかし、
「行くぞ、ティオ、避けてろ!」
――無茶言わんでください!」
 怒鳴り声と共に、馬上のヒースケイドが降ってきた。飛ぶように降り立った隊長に、ティオはうっかり見とれそうになり、はっと我に返った。
「安全策とってくださいよ! 怪我人増えたら事態がややこしくなるんですから」
「もう、いきなり降りないでよ、ランプ落としちゃうとこだったじゃない!」
 肝を冷やしたティオが怒鳴り返すのと、共に騎乗していたオーレリアンが声を上げるのが同時。
「見くびるなよ」
 それを見やった隊長は一人、涼しい顔をしていた。
「ロープで上がれないこともなさそうだな。おい、グリフ、ロープを下ろせ」
 ヒースケイドの命令と共に、一本の太いロープがするすると降りてくる。馬から下りた隊長はティオにつかつかと近づいて、彼をひょいと担ぎ上げた。呻き声を上げたティオに、うるさいと一喝する。
「……左肩が抜けているか。少し揺れるが、動く方の腕でしっかりつかまっていろ」
 下からオーレリアンが見守る中、ヒースケイドは垂らされたロープをさくさく登ってゆく。隊長にとってはさほど困難な作業ではないはずだが、彼は意外なほどに張り詰めた空気をまとわせていた。これは、とティオは思った。――怒っている。
「……すみませんでした」
 ティオの掠れた声に、ん、と隊長は鈍い返答を寄こす。
「リアを危険な目に遭わせて」
「……ああ」
 手痛い叱責を食らうと覚悟していたが、返ってきたのは拍子抜けするような反応だけだ。
 崖の上にティオを下ろしたヒースケイドは、今度は逆にロープを伝って降りて行く。帰りはオーレリアンを馬に乗せて、迂回ルートでぐるっと周ってくるらしい。
 ティオは、隊長の肩から今度はグリフォードの操る馬の背に移されるようだ。ティオが一人では馬の背に上がれないと見て、大柄なグリフォードはいともたやすくティオを両手で抱え上げた。担ぎ上げている、というより寧ろこれは――横抱きにされているのではなかろうか。
「先輩……すごくありがたいけど嬉しくないです……」ティオの減らず口に返ってきた言葉は、
「ならば、寝たふりをして忘れていろ」
――そうします」
 心なしか、グリフォードも怒っているような気がする。
 疑問が浮かんだがすぐに、馬の振動による激痛にティオの思考はかき乱された。


 城に戻ると、待ち構えていた近衛隊員ウィーダリオンによって、ティオの脱臼は乱暴に整復された。とはいえ、部位が肩なので、無理に嵌めるというよりは腕を上げさせられる程度のことではあったが。しかし、医務室のベッドに叩き込む所作は、到底優しいとは言いがたかった。
 みんな何をそんなに怒っているんだと膨れたくなったが、体力の限界がきていることもあり、脇腹を縫っている間にティオはことんと眠ってしまった。
 目が覚めると、窓の外はひどく明るかった。もう朝のようだ。途端に、ベッドの傍に控えていたルゥエが文字通り飛びついてくる。
「ティオ様! お目覚めになったんですね!」
「ルゥエ……痛い……」
 ティオは涙目になっている。麻酔の切れた身体には手痛い洗礼ではあった。
「それにしても、あの人たち! ティオ様にこんなことをして、許せません」
「あの人たち……って、馬車の連中、ここに来ているのか?」
 頷いたルゥエにティオはぱちくりと目を瞬いた。昨夜来ていたにしても、既に夜は明けている。「もう帰った」という返答を聞かないところをみると、まだ城内にいるとでもいうのだろうか。
 喧嘩のとばっちりでとんだ目に遭った。一言文句でも言ってやらねば気がすまないとばかり、ティオは連中の居場所を尋ねた。
「独房にいます」
「……って、牢屋に放り込んだのか!?」
 ティオは思わず息を呑んだ。冗談のような話である。
「当たり前です、ティオ様と姫様を危険な目に遭わせたんですもの、じっくり頭を冷やすまで出してなんかあげません。入れたのは、グリフォード様たちですけれど」
「……そうなのか?」呆然と呟くティオに、
――あ、ヒースケイド様たちにお知らせしてきます! ティオ様が目を覚ましたって言ってこなくっちゃ!」
 いつものように、暴走娘は慌しく部屋を出て行った。
「お目覚め?」入れ替わりに、オーレリアンが室内に入ってくる。
「ああ――快適とは言いがたいけど」
「あのねえ、ティオが言っていた不幸論のことだけど」
 なんのことだ、と言いかけて思い当たった。どうにもみんなから愛されてないような気がする、とこぼした例の愚痴のことだ。
「少なくとも一人、このオーレリアンよりティオのことを大事に思ってる人がいるんだからね」
「誰だよ」
――私よ!」
 その返事を聞いた瞬間、ティオはしまったと後悔した。オーレリアンは本気で怒っている。
「……悪かった」
「まったくだわ」
 そう言い捨てて、オーレリアンは退室した。彼女が怒っているのは、言わずもがなのことを言わされたからだ。二人の間でそれをわざわざ口にすることは、ひどく押し付けがましい行為になってしまう。言われずとも、ティオはわかっていなければならなかった。
「それにしても……」
 反省と共に、ティオは大きな溜息をついた。同時にわかったのだ。隊長が、先輩が、皆が怒っていたのはティオを心配していたがゆえだと。憂える気持ちが苛立ちにあらわれたのだ。
「どうしてみんな当の本人に八つ当たりするんだ……」
 思わぬことで自分が愛されていることを確認したはいいが、手放しで喜んでしまっていいのかしばし悩んだティオであった。

<了>


novel

2007 11 16