-----起
コンコン、と軽くノックの音が響く。
細く開けた扉から顔を覗かせた姫に、貴公子ウィーダリオンは優雅に一礼をする。
「姫、招来に応じ、参上仕りました」
そう言った貴公子を、挨拶もそこそこに姫は自室へ引っ張り込んだ。
「姫、ずいぶんと積極的ですね」
「ウィード、私、そういう冗談は嫌いなの。言わなかったかしら?」
むっとする内面を押し隠し、輝くような笑顔で姫は振り返る。最近では、姫もそれに対応できるようになってはいたが、二人きりのときに聞きたい冗談ではない。
そう、まさに二人きり。場所は城内の姫の部屋である。彼を呼んだのは他ならぬ自分であるため、姫もそう強くは出られないでいた。
対する貴公子は、いつもどおりの愛想笑いを、顔に張り付かせているばかりである。読めない。思えば、姫の本性を知ったとき、真っ先に自我を取り戻したのがこの男である。その間、わずかに三秒。
ちなみに姫の本性は、近衛隊の者には一通りばれている。隊長のヒースケイドと結婚したためだが、まあ、予想できる展開ではあった。
お茶を注ぐ姫を前に、貴公子は椅子の上でゆっくりと足を組む。
「なにか、相談事があられるそうですね」
「そうなの。ヒースのことなんだけど……」
言いよどむ姫に、にこりと貴公子は笑んでみせた。
「新婚生活に、不安でも?」
「ええ」
「物足りないとか?」
「少しね」
「夜の生活が」
「違あああぁあーう!!」
ガッシャン。ひっくり返したカップが、ソーサーの上で派手な音を立てた。
本題に入るのは、まだまだ先のことになりそうである。
-----承
姫は幼い頃からずっと、自分は政略結婚をするのだと思ってきた。それゆえ、実際には家柄を考慮してはいたが政略結婚ではなかった上、ある程度婚約者を選択する余地が残されていたのにも関わらず、早々に結婚を決めてしまったのである。
つまり、恋愛して結婚するという図式が、姫の中にはなかったのである。
それを、いまさらになって姫は後悔しているのだ。
いつも姫の相談役を務めている乳兄弟には、そのことは話せなかった。乳兄弟は隊長の部下である。夫の威厳のためには、彼に相談することは出来ない。そこで白羽の矢が立ったのが貴公子であった。彼は立場上は隊長の部下であるが、実質は身分が高いこともあって、隊長の親友の位置に納まっている。
姫が後悔しているのは、結婚したこと自体ではない。隊長のことは好いているし、夫としても不満はない。ただ、姫は隊長に恋をする前に結婚してしまったのだ。それがなんとも一足飛びに思えて、違和感を禁じえないのである。
隊長にしても、恋愛して結婚する以外の婚姻は考えたことがなかったであろう。しかし、姫の相手として望まれれば、断るという選択肢は存在しないのである。それでは政略結婚と変わりがない。
言葉を尽くして訴えたが、貴公子の返事は微笑と、一つの言葉だけ。
「ヒースは、姫とは違います」
それは、姫の不安を解消してはくれなかった。
-----転
結局、相談と称して、姫はずるずると貴公子と密会を重ねた。当事者である隊長にも言えない、胸のうちを打ち明けられるのは貴公子だけだったからである。
内容はただ、お茶を飲んで、愚痴を言って、ケーキを食べて、すっきりするだけ。
貴公子といると気を張らなくて済むからであったが、外からはそれがどう見えるか、考えもしなかったのは姫の失態である。
その日、姫は貴公子の屋敷に招かれていた。家からは適当な言い訳を繕って出てきたが、通されたのは貴公子の自室であった。
「今宵はディナーをご一緒していただけますね? 伝令は届けておきました」
貴公子の胡乱な微笑が企み顔に見えたことは、姫の胸に秘められた。
「伝令って、屋敷に?」
「さあどうでしょう」
怪しげに笑んで、貴公子は姫の手を取り上げる。
「何度も二人きりで会っているというのに、姫は私には少しもときめいてくださらないのですね」
そう言って、姫の白い手に口付けた。
はあ? と姫が呆れる間もなく、バタンと大きく扉が開かれ、件の隊長が姿を現した。
「リュアン!!」
当の瞬間をばっちり見られ、姫はぴきんと固まった。
-----結
まず姫の頭に浮かんだのは、嫌われたらどうしよう、という思いだった。
妙齢の男女が、二人きりで何度もこそこそと会っていたら、疑念をもたれることは必至である。しかし姫は、言い訳の言葉も持ってはいない。
カツカツと、毅然とした靴音が近づき、姫は身を竦ませる。
長身の体躯が無言のまま傍へ立つと、なんとも言えぬ威圧感があった。
「俺のものに手を出すんじゃない」
貴公子へそう告げて、隊長は姫をひょいと抱き上げる。
「きゃあ!?」
暴れる余地もなく、姫の顔は隊長の胸板に押し付けられる。姫の頭は真っ白になり、心臓がどきどきと脈打った。
泣き出しそうになりながら、姫はかすれた声で「おろして」と訴えるが、それは「帰るぞ」という一言のもとに棄却される。
そのまま馬車に乗せられるまで、姫は地面に足を付かせてはもらえなかった。
「話はウィードに聞いた」
「え」
ああどうしよう、と姫はうろたえた。なぜこんなにも調子を狂わされてしまうのか。
「俺は政略結婚だとは思っていないが」
「……でも」
「ああ、やはりおまえはわかっていなかったんだな」ふっと隊長は笑んだ。「俺にとってはちゃんと、恋愛結婚だ」
姫は目をしばたたかせる。
「……そう、なんですか?」
「無論」
抱き寄せる隊長の手を、姫は心地好く感じる。
貴公子がわざわざ、自分相手ではときめかないのか、と言った意味がわかった。隊長相手ではどうなのか、と暗に尋ねていたのだ。確かに貴公子相手では意識するも何もない。隊長といると息が詰まるのは、罪悪感からではないのかもしれなかった。
「俺に惚れていないのなら、これから惚れればいい」
あっさりと言ってのける隊長の自信たっぷりな様子に、姫は頬をほんのり染める。
「ええと、もう、あなたに恋しちゃったみたい」
-----終
そうして恋が愛に変わる頃、姫は本来の調子を取り戻すが、それによって隊長の方が乱されてしまう。
というのはまた別の話である。
<了>
2006 08 26