ことば

「勉強会、しばらくやめにしよう」
 その言明は、突然投下された。
「え?」
 ブラウは顔を上げる。同時に、羊皮紙の上を滑るように動いていたペン先が止まった。
 勉強会と称してはいるが、赤点すれすれのブラウと学年主席のアインでは並び立つはずもなく、いつもブラウが一方的に授業の復習を見てもらっていた。
 静かな一室を静寂が支配して、ブラウは息苦しくなる。
「あんたの所為じゃない」
 彼女が口を開く前に、アインの台詞がさえぎった。
「これは、おれの問題だ」


「で、おれが代理なんだけどね」
「はあ……」
 いつもの東棟の一室で、アインの代わりに現れたのはルベリだった。アインに見捨てられては、ブラウの成績は地に落ちる。救済措置をとってくれたのはいいが、なぜルベリ。
 複雑な表情になるブラウを見て、ルベリは苦笑した。
「わかりやすいな、ブラウは。同じ班だからだろ」
「あ」
 ブラウは得心した。上級生は班ごとに授業を選択するのだ。すべて同じ授業をとっているのは、同じ班の者しかいない。アインが、エルザとルベリの成績を比べて後者を選んだのか、それとも単にルベリが親友だからそうなのかは知らないが。
 それにしても、ねえ。
「なんだ、ブラウ。もしかして、まだ怒ってんの?」ルベリは対面に座っているブラウの顔を覗き込んで首を傾ける。彼が言ってるのは、この間どさくさ紛れに抱きしめたことだ。「だから悪かったって。アインがご執心だって子に興味があって、ちょっとからかっただけだって言ったろう?」
「ルベリって性格悪い」
 このおしゃべり男め。ブラウはルベリを軽く睨みつけた。なにをいまさら、とアインなら言うだろう。
 対するルベリは、にやっと笑っただけだった。
「ブラウも人のこと言えないな。おれとアインを間違えたくせに」
 うっとブラウは声を詰まらせる。事の顛末はしっかり、ルベリにも伝わっているのだ。
「声を除けば、間違える要素なんてないだろう? なにを見てたんだ」
 完膚なきまでに叩きのめされるとはこのことか。ブラウは恨めしげな目を向け、子供の喧嘩のごとく言い返すしかない。
「ルベリって優しくない」
「それはお互い様」


「……私、アインに同情するわ」
 盛大な溜息とともに、エルザはそう言った。
 ブラウは、むむと眉間に皺を寄せる。単にアインが勉強を教えてくれなくなった、と報告しただけなのに。なぜにそんな返事が返ってくるのか。
 同じ班になってアインと交流の増えたエルザは、前ほど彼のことを悪く言わなくなった。彼らが仲良くなったのはいいことだけれど、なにやら違う方向に矛が向けられていると思うのは気のせいだろうか。
「なんかその言い方、含みがない?」
 机にだらしなく顎を乗せつつ、ブラウは上目遣いでエルザを見る。
「ほんっとに、気づいてないの? そりゃちょっと、無神経だわ」
 疑問符を顔中に並べ立てたブラウに、エルザは呆れた顔を向けた。
「アインがブラウを遠ざけた理由、わかってる? あんたが好きだからでしょ」
「な、なな、なんで?」突然そんな直球がくるとは思っていなかったブラウは、みっともなくもうろたえてしまう。「なんか、ええと、それっぽいことは言われたけど、勉強見てもらうのは前からだし、特別に気まずくなったわけでもないし」
「前と違うのは、ブラウがアインの気持ちを知ってるってことよ。まだビシッと拒絶されたほうがましだったんだろうけど、あんた全然態度変わんないんだもん。変に期待したりするのが嫌だから、気持ちが落ち着くまであんたとの接点を減らそうとしてるんでしょ」
「……そうなの?」
 ブラウはうつむいて黙ってしまう。そんな彼女に、エルザは更に疑問の種を投げかけた。
「それよりも、問題は代理が他でもないルベリだった、ってことにあんたがこだわってるってことよ」
「え」
 ブラウは思わず顔を上げた。アインと知り合ったきっかけは彼の名誉のために内緒にしているけれど、最初の頃ブラウが気にしていたのはどちらかといえばルベリだったことを、エルザは知っている。
「それって、どういう意味?」
「それは自分で考えなさい」


「ルベリのときは、もっと意識してたのになあ」
 ブラウはぽつりと呟いた。
 ルベリのときはそれでもよかった。
 憧れのジークエンの生徒で、ブラウを助けてくれたひと。単純に、憧れの気持ちを抱いて、会えば浮かれた。声が同じであればそれで安心できた。
 ただ、アインの場合はどこか違うのだ。
 適度な距離感を保っていてくれるところや、堪えきれずにふっと息を漏らすその笑い方、“彼”との共通点を見つけるたびに、心臓が壊れそうなほどの音を立てるのが、怖かった。
 友達としての彼と、憧れの人としての彼を、自分の中でどう確立させていいかわからなかった。
 だから、放棄した。なかったことにした。
 つまり自分は逃げたのだ。この心地好い関係を変化させるのが怖くて。
 ――ああ、なんという卑怯者だろう、私は。まったく、いつまで経っても変わらない。
 だからアインはブラウから離れたのだ。このままでは、彼を失ってしまう。
 こうなったら、女房に逃げられた旦那のごとく、帰ってきてくれと懇願するしかない。
 ブラウは掌でぱしりと両頬を叩き、自分を鼓舞した。
「頑張れ」


「ああ、この場合はこっちの術式でもいける。ただ倍量にする場合はそれぞれ違う術式が必要だからそれに当てはめて――
 久しぶりのアインの声が、耳に飛び込んできた。図書館に踏み入れたブラウの足が止まる。
 ここは二階より上がメインになっていて、本棚は一階には置いていない。そこにはカウンターがあるほかは机が並んでおり、本の持ち込みも飲食も談話も可になっていた。そのフロアで、アインは誰かに勉強を教えていたのだ。しかも、よく見てみると相手は女子生徒だった。
 アインとは、もちろん普段の授業では会っている。ただ、この声音を聞くのがしばらくぶりだった。なにかを教えるときのアインの声は、存外に優しいのだ。相手が理解できなくても解を間違えても、決して声を荒げることなく一から教えてくれる。
 ――私だけじゃ、なかったんだ。
 自分だけがその声を知っていると思っていたのに。
 胸がぎりぎりと締め付けられるような気がした。なんのことはない。すでにブラウは“彼”ではなく、アイン自身の声に囚われていたのだ。気づくのがあまりに遅くて、自分の間抜けさ加減を思わず呪っただけだ。
 ――それだけだ。
 そう自分を納得させようとしたのに、気づけばブラウの足は走り出していた。そのまま、研究書を無造作に広げた机の前に立つアインの背中に、後ろから体当たりをするかのように抱き付いた。
「アイン!」
「ブ、ラウ?」
 アインの、かすれたような声が降ってきた。
 彼は身体を捻ってこちらに向き直ろうとしているらしい。それをさせじとシャツを握る手に力を込めて、ブラウはアインの背中に額を押し付けた。
「やだ」涙がこぼれて、アインのシャツに吸い込まれてゆく。「私だけじゃなきゃ、やだ」
 なにが言いたいんだかわからないな――とどこかで冷静な自分がそう思う。
「私にはもう、勉強教えてくれないの? それとも……それとも、私なんてどうでもよくなっちゃった?」
 アインの代わりがルベリなのが嫌だった。たとえ勘違いだとしても、一時期ブラウがルベリを意識していたことは確かなのだ。それを知っていて、ルベリを代わりにするなんてひどい。もうアインは、自分に興味がなくなったのかと思わされるのが辛い。
 アインに回していた腕が、引っぺがされた。
 彼はこちらを振り向いて、無防備になったブラウを抱きしめる。
「アイン……?」
 ブラウは驚いて、思わず涙も引っ込んでしまった。アインの、どこか辛そうな苦い声が耳に響く。
「だから、言ったろう。おれの問題だって。あんたにこういうこと、したくなるから」
 後悔しているような声。しかし行為はそれとは裏腹に、ブラウを抱きしめる腕に力が込もる。
「違うよ、これはふたりの問題」ブラウは答える。
 アインの抱擁は、ルベリのそれとは違って荒々しかったけれど、全然嫌ではなかった。
 そう、全然。
 ブラウはアインの腕の中で、くすくすと笑い出してしまった。例えようもなく単純なことに、やっと気がついたのだ。
 やばいな、好きになってしまってたみたいだ。
「えーと、私帰るね」
 突然第三者の声が割り込んで、二人は我に返った。声をかけたのは、アインに勉強を教わっていた女生徒だ。
「ああ、悪いな。見ての通りだ」アインはうろたえた様子もなく、彼女を見送った。
「……えっと、誰?」おおこれが嫉妬というやつか、と思いながらブラウは尋ねる。
「ルベリの妹。単に、あっちとこっちの指導役をトレードしただけ」
「あ、そうなの……」
 冷静になったブラウは、突撃した自分の行動を少し恥じた。アインにもあの子にも、恥をかかせてしまった。館内に人の少ない時間帯とはいえ、公衆の面前で醜態を演じたことは確かである。
 でも後悔はすまい。
 ブラウは、口の横に掌をあてて、手招きでアインを呼ぶ。彼は心得て、ブラウの口元に耳を近づけた。
 さあ言うのだ。このどきどきが収まらないうちに。
 小声ながら、その言葉は自分の耳にも甘く響いた。
――好き」

<了>


novel

2006 05 03