こえ

 今日、ブラウはジークエン魔術学院の上級二年生になった。学校は初級、中級、上級とあり、一部の例外を除いて順当にいけば十五で上級に達する。しかし一度ひとたび上級に進むと、あとは荊の道となる。単位の合格水準がとてつもなく高くなるからだった。ちなみに入学試験、進級試験を執り行うのは国の機関であるため、すべての学校で同じ問題が出される。魔術師の質を下げないためだ。
 ブラウはなんとか留年せず、進級できたことにほっとしていた。しかし、彼女のような生徒はほんの一握りである。ジークエンでは、ほとんどの生徒がなんなく進級してしまうからだ。ジークエンが優秀だといわれる所以ゆえんである。
「さ、先が思いやられる……」
 ブラウはもうふらふらである。今日進級式が行われたばかりだというのに、同日に前年の内容の復習試験が実施されたところ。ブラウの頭はパンクしそうだった。このままでは三年になれるかどうかも危うい。なんとか優秀な友人を得て味方につけなければ、と彼女は心に決めた。いままでは落ちこぼれ同士で仲良くやってきたため、彼女以外は進級できなかったのだ。
「友達ゼロからのスタート……厳しい」
 ぼやいてみても始まらない。


 二年生からは、授業の形態が特殊になる。一年のうちは知識中心の授業だったために、教授が黒板に書く文字を写し取っていれば良かった。あとは辞書と首っ引きでなんとか理論を理解し、詰め込むだけだったのだ。
 しかし、今学年からは、実技用の班に分かれて授業を受けることになる。何の授業を受けるかは、班ごとに自分達で選択することができる。授業の半分は実技となり、黒板をほぼ使わない授業も多い。資料や材料のある部屋で授業を行い、教授の役目は監督程度だ。自分達で調べ、実験を繰り返し、過程をメモし、成果をレポートにして提出する。
 ブラウはやっと実技過程にまでこぎつけたことに喜び半分、憂い半分であった。なにしろ、班の中で足を引っ張るのは自分だという確信があったので。
 今日は初の顔合わせである。明日からは早速授業に入るが、今日は科目の予約までしか進まないので、たいしたことはないはずだ。
「えっと、Aの七班……」
 壁に張り出されていた自分の班番号を呟きながら、ブラウは目当てのテーブルを探した。やっと見つけたそこは、すでに三人の生徒が席についている。自分は最後だったようだ。
「ここ、Aの七班の席であってる? 私はブラウ、よろしくね」
 ブラウは努めて明るい声を出した。なんといっても第一印象は大事である。
「よろしくー。私はエルザね」
 隣に座っていたロングヘアの女の子がひらひらと手を振り、ブラウは席についた。エルザはさばさばとしていて、頼れるお姉さんタイプのようだ。
 次いで、目の前に座る黒髪の男子が口を開く。が、にこりともしない。
「……アインだ」
 名前を聞いた瞬間、ブラウは目を丸くしたままエルザを振り返ってしまった。彼女はにやりとする。「お察しのとおりよ」
 アインとは、学年主席の名前だった。つまり、学年一番の高成績保持者である。
 ――この人と仲良くなっちゃえばいいんだ……!
 不純な動機により、ブラウは一方的な友情を感じた。すべては成績のためである。しかしその感情の起伏も、次に聞く声への衝撃には敵わなかった。最後の一人は、人懐こい顔でゆっくりと言葉を口にした。
「ルベリ。よろしく」
 ブラウはその声を知っていた。


 ブラウが十五になったばかりの、秋の話である。その日、ブラウは快適な眠りと目覚めを手に入れた。
 ――はずだったが、日が昇り目覚めると、目が見えなくなっていた。
「えっ、嘘っ、やだ」
 慌ててみても仕方がない。とりあえずできることからしようと、混乱した頭のまま顔を洗って服を着替えた。
 落ち着いて考えてみると、まるっきりの盲目というわけではないようだ。明暗ははっきりわかるし、視界は白黒ながらも物体の有無ぐらいは判別できた。そこにあるものがなにかは皆目わからないが。
 つまり、勝手知ったる我が家でならば、生活にあまり支障はないといえる。考えを廻らせる。失明の原因は昨夜飲んだ薬のようだ。迷惑な副作用ではあるが、そこまで危険な薬草を使用した覚えはない。たぶん、放っておけば数日で元通りになると思われる。この際、学校を欠席するのは仕方のないことだ。
 そこでブラウは、タイミングの悪い事実に気がついた。
――今日、買出しの日だった……」


 人にぶつかり手探りながらも、なんとか大通りに赴き、そこでブラウは途方に暮れた。
「売ってるものがなにかわかんないよ……」
 折りしも人通りの多い時間帯である。店主がブラウへの説明のためだけに多大な時間を割くとも思われない。それ以前にブラウには、何屋どころか、どれが店でどれが普通の家かもわからないのだ。
「やばい」目の前がぐるぐるしてきた。
 そのとき、前方に大きな影が見えた。人と見るには明らかに大きく、家と見るには明らかに小さい。なんだろうかと考えるうちに、それがだんだん大きく――否、近づいていることに突然気がついた。
――馬鹿、危ないっ」
 いきなり腕をひかれ、ブラウはその方向に倒れこんだ。固い地面に転がる前に、誰かの腕で身体を支えられる。
 その瞬間、どかんとすごい音がして、大きな影が先刻ブラウのいた位置を抜けて店の中へ飛び込んだ。人々の喧騒と馬のいななきを聞いて、大きな影の正体が暴走馬車だったことを知る。
「死にたいのか」
 声の主はいらいらを隠そうともせず、あろうことか、ちっと舌打ちまでしてのけた。耳に染みとおる良い声は、声質とは裏腹のきつい言葉遣いが常のようだ。
 しかし声の主――少年の手つきは乱暴ではなかった。だからかもしれない。彼の手が腕から離されたとき、急に心細く感じたのは。
「あ、あのっ、これも何かの縁だと思って、お買い物付き合ってくれない!?」
 彼の腕をつい引き止めたとき、ブラウはお礼を抜かしてしまったことに気がついた。


 意外と素直に少年はブラウの買い物に付き合った。機嫌が悪いのはブラウの所為ではなく、どうやらもともと虫の居所が悪かったようで、時間と共に彼のぴりぴりした空気も落ち着いた。
 彼は何も聞かなかった。
 ブラウの様子から目が不自由なことには気がついたらしいが、だからといってなにをするでもなかった。彼の服の裾をつかむブラウの手を許し、歩調を合わせるのみで、あとは彼女に店の位置を教えてやるぐらいだった。
 ブラウにとってもそれで充分だった。店主に目当ての品物の在りかを聞き、店主が手ずから出さぬ場合には自分で探す。それでどうしてもわからぬ場合には少年の手を借りる。
 そうして、ブラウの買い物は淡々と進んでいった。
 ふう、と息を吐いて広場の噴水の見える階段にブラウは腰を下ろす。隣で少年も座る気配がした。
「助かっちゃったな。ありがとう」へへとブラウは笑う。
「目が見えないのなら誰か共を連れて出ろ」少年の硬質な口調は変わらず。
 同年代だと見て取ったブラウは、自然くだけた態度になっていた。
「うーん、ちょっと突発的な事故でね。薬の調合を思いっきり失敗したらしいの。ぐっすり眠れる薬のはずが、朝起きたら見えない、と」
 大袈裟な手振りで説明するブラウに、少年は堪えきれなかったような笑いをふっと漏らした。
「あ、そう。間抜けだなあんた」
 ちぇ、馬鹿、知らないとブラウはすねてみせる。少年は意に介さず口を開いた。
「リュウノユビを使った睡眠薬だな? あんたリュウノシタで中和しなかったろう。リュウノユビは強い睡眠効果があるが、視神経を麻痺させる効果も持つ。下手に大量に使うと危険だ」
 呆気にとられたブラウだが、調合を教えてみろ、と言われ、眉間に皺を寄せながら必死に思い出した数字の羅列を述べた。
「ああ、それならたいした量じゃない。明日の朝には治ってるだろ」
――――
 ブラウは黙り込み、肩を震わせる。それを不審に思った少年は、おい、と声をかけた。
――すごい! あなた魔術学校に通ってる人? なんでそんなすらすら答えられちゃうの? あ、私は、モンデンリヒト中級の生徒なんだけど」
 ブラウは感動に打ち震えていただけだった。面食らった少年はしかし、すぐに気を取り直す。
「ああ、おれはジークエンの中級三年だ。……あんた、睡眠薬ならユキノソウを使ったものの方が安全だったんじゃないのか」
 ユキノソウを使った睡眠薬は穏やかな眠りを促す。不眠症などには最適である。一方のリュウノユビを使った睡眠薬は短時間で深い眠りを呼ぶ。睡眠時間の足りない者にはこちらの方が適していると言える。
「だって、私も三年だもん、受験生だもの。上級に進みたいの、勉強時間が惜しいのよ。中級ではジークエン落ちちゃったの。だから上級では絶対、ジークエンに入ってやるんだから!」
 少年が憧れのジークエンの生徒だと聞いて、ますますブラウの意欲は燃え上がった。
「帰って勉強するわ! もしジークエンに入学したときはよろしくね!」
 ご利益とばかりブラウはずうずうしく少年の手を握り締め、そのあとはスキップ高らかに家路をたどった。


――というわけなんだけど!」
「……その話をなぜおれにする?」
 東棟の資料室でブラウはアインに向かって話をしていた。成績の向上のためアインを味方につけようと、親しみやすさをアピールしてできるだけプライベートな話題を出してみたのだが。どうやら失敗だったようだ。
「だって、ルベリに言ったって私のこと覚えてるかなんてわかんないし。一年以上も前のことだから。しつこいとか思われたら嫌だもん」
 それにしたってルベリって良い声してるよね! と両手を組んで言ってみると、言ってろ、とさらりかわされた。
「む、ちょっと、真面目に聞いてよー」
 そしてバタンと扉が開いた。
「あ、二人ともここにいたのか。何の話してたんだ?」当のルベリである。
「や、なんっでもないですよ。ちょっと勉強教えてもらってただけ」
 面白いようにブラウの態度は豹変する。行儀悪く腰掛けていた机の上からさっと飛び降り、ありもしないスカートの埃を払う。その様子を見て、くっと笑ったアインの足を、ルベリの見えないところで蹴りつけてやった。
「仲良いんだな、二人とも」
 ルベリの言葉を、慌ててブラウは否定する。
「え、いや、そんなことない……」そこではたと手を打つ。「あ、うん、そうそう、仲良いんだ! 勉強教えてくれるんだもんね、うん。ねっ、アイン」
 目当ての資料を見つけたルベリは、二言三言交わすと資料室を辞した。
「……誰と誰が仲が良いって?」
 うんざりするように言ってのけたアインに、にーっとブラウは笑ってみせた。
「いいじゃんいいじゃん、勉強教えてよ。今日のところ、全然ついていけなかったの! 呪文の詠唱の法則性がいまいちわかんないんだもん。それと、ルベリと親友なんでしょ? ちょっとその情報を流していただけたら、と」
「それが目的か」アインは大きく溜息をついた。


「誰と誰が仲が良いって?」
「だから、ブラウとアイン」
 なに呆けてんの? と言いたげにエルザはブラウを見る。
「誰から聞いたの、それ」私が仲良くしたいのはルベリだってば、と言いたいのをブラウは堪えた。
「ルベリ」当のご本人様からだった。
「う、うん、まあ、悪くはないこともないかな……?」
 アインとは実際問題仲良くしておきたい。なにしろメリットが、成績が。しかしその仲を公認されるのはなんともいただけない。複雑なオトメゴコロ。
「しっかし、よくアインと付き合ってられるわよねえ。なんていうか、関わるな放っとけ、っていうタイプじゃない。愛想悪いし。あんな奴お望み通り放っときなって。ブラウが傷つくの私見たくないよ」
「そ、そんなでもないよ」
 ブラウはきゅっと唇を噛んだ。なに、なんなの、なにそれ。ひどい奴じゃないもん。確かにちょっと冷たいけど、勉強だってちゃんと教えてくれる。話だって聞いてくれるもん。心配してくれていることは承知しているが、ブラウはエルザが少し恨めしくなった。
 ――そしてなにより、嫌いなのは自分。好きなようにアインを利用して、そう仕向けているのは自分なのに誤解はされたくなくて。それでいて、彼への悪口には怒る権利があるだなんて、思いあがりもいいところで。
 ……私はなんて、卑怯なんだろう。
「ブラウ?」
 急に意気消沈したブラウに、エルザは訝しげな声をかける。
「ん、なんでもない。頭冷やしてくる……」
 くるりと踵を返し、ブラウは廊下を歩き出した。
 実験室の前を通り過ぎようとしたとき、ブラウは思わず足を止めた。部屋から漏れてきたその声を、聞き逃せなかった。
 その声は、ルベリ。
 誰かと話している。対峙した相手は女子生徒。人目のない教室で、真摯な瞳で。用なんて決まっている。当然のように、女生徒からルベリへの告白が始まった。
 これ以上聞いてはいられなかった。ブラウはそっとその場を去る。足許を見つめながら、とぼとぼと歩いた。少女の熱意に、ルベリは困惑したようだった。おそらく、否の返事を返すことだろう。
 しかし、ルベリはもてる。こんな冴えない、成績も悪いブラウのような生徒には見向きもしないだろう。ルベリは誰にでも優しい。
「あのことも、覚えてないに決まってる……」
 彼にとってはきっと、良くあることのひとつにすぎないのだ。
 ふと目線を上げて、視界にアインの姿が入る。その瞬間、ブラウは彼に見つからないよう、物陰に隠れていた。
 泣きたくなったからだった。アインを見た瞬間、緊張の糸が緩んだ。話を聞いてもらいたい。慰めてもらいたい。
 でもそんな恥知らずなこと、絶対にするべきではないのだ。


 自分の気持ちがわからなくなった。
 仲良くしたいのはルベリで、でも仲良くしているのはアインで。ルベリとは、アインとのようにうまく話せない。明らかにとっつきにくいと言われているのはアインの方なのに。どうして助けてもらったあのときのようにうまく話せないのだろう。
「……見えないものがあるのかもしれない」
 見えるからこそ、だからこそ。見えないとき、自分はどうやって彼と接していただろう。どんなふうに雰囲気を感じ取っていただろう。
 ブラウは原点に戻ることにした。


「み、見えないぃ……」
 ブラウは手探りで学園内をうろついていた。彼女の目の周りは、スカーフで目隠しがなされている。前回とは見え方が違うが、スカーフの隙間から足許がわずかに見えるのでなんとか歩くことができた。
 下らない方法かもしれないが、目隠しのままルベリと会って、もう一度自分の気持ちを確かめようと思った。
 なんとなく東棟の資料室へ行こうと思い立ち、長い石造りの螺旋階段を上り始める。ここへはあまり生徒が来ないので、じろじろ見られなくて楽だった。なにしろ、相当奇異なことをしているという自覚があるので。
 そのとき、思わず足が滑った。
「危ないっ」
 ふっと現れた誰かの気配が、ブラウを抱きとめた。その声はルベリ。
「なにしてるんだ、大丈夫か? なんだかふらふらしていると思って気になったんだ。どうしたんだ、その目隠し。なにやってるの」
「……ありがと、ちょっとした実験なの」
 その声は確かにルベリ。
 ――でも、違う。あの人じゃない。
 いつもならどきどきするはずの心が、すっと冷えた。ルベリはあの人じゃない。あの人ならこんなどさくさ紛れに抱き締めたりなんかしない。余計なことをべらべらとしゃべったりはしない。
 なんで声ひとつでここまで信じ込めたんだろう。
「ごめん、もう行くね」
 ブラウは、するりとルベリの腕から抜け出て階段を駆け上った。なんだかやたらとショックだった。ぼろぼろと涙がこぼれてきた。
 そうしてまた、ブラウはバランスを崩した。もう足許の階段が終わっていることに気づかず、床を踏み誤ったのだ。ルベリは置いて来てしまった。転ぶ、と思った。
 そのとき、誰かの腕がブラウの身体を支えた。
 彼女を立たせ、すっと腕が離れる。
 覚えのある、腕の硬さ。雰囲気でわかる、適度な距離感。
 そして、気遣わしげな声が降ってきた。
「……大丈夫か?」
 こくりと頷くと、気配が遠ざかろうとする。ブラウはその腕を引き止めた。
「ま、待って!」
 右手で彼の腕を捕らえたまま、左手で目隠しをはずす。
 目の前にいたのは、アインだった。


「馬鹿、なんで言ってくれなかったの。それに、声。どうして」
 せっかく収まりかけた涙がまた溢れ出す。
 声なんかに惑わされていたから気づかなかった。確かに声は違うけど、それを除けばあのときブラウを助けてくれたのはアインだと、こんなにもはっきりしているのに。
 ブラウが気づいたことをアインは悟ったらしい。困ったように眉根を寄せ、諦めたような溜息をついた。
「上級の魔術に手を出して、失敗したんだ」
 アインとルベリの姿を入れ替える術のはずが、声だけ入れ替わってしまったらしい。それで合点がいった。アインはきっと、プライドが邪魔をして言えなかったのだ。
「それもあるけど。おれはブラウのこと忘れたりしなかった。おれには、言えなかったから」
 術に失敗したと言うことも、教えを請うこともできなかった。例えば受験に失敗したとして、それを初対面の人間に言うことなどできないだろう。ブラウのようには、絶対に。
「……それに、あんたはルベリの声が好きなんだと」
 そう思ってた、と言われ、ブラウは憤慨した。
「なに、それ。なにそれ、ひどい。ルベリの声が好きなんじゃないもん。あなたの声だったから、だからじゃない」
 アインは沈黙した。そのあと、躊躇いがちに口を開く。
「……わかってるか? それ、熱烈な告白にしか聞こえないんだけど」
 見つめられた瞬間、ブラウの胸の鼓動がひとつ、どきんと大きく飛び跳ねた。

<了>


あとがき
novel

2005 11 12