午後のエトランジェ

 約束したわけじゃないけど、なにかが起こるとすればこの日だと思っていた。
 私は十五の歳に、二ヶ月ほど行方不明になっていた。その間の記憶がない、ということで押し通していたら、神隠しに遭ったらしい、という噂が囁かれたがそのうち消えた。
 本当は、異世界に行っていた。嘘みたいな話だ。たまに、自分でもやっぱり夢じゃないかと思ってしまうことがある。でも、「迎えに行く」と言われた言葉を私は何度も後生大事に取り出して、あれは夢だ、現実を生きなきゃ、と思ったり、辛いとき心の支えにしたりを繰り返していた。
 そうして私はこの日――成人式の日を迎えた。
 寒さで道路が凍結するかもとニュースで言っていたが幸いそんなこともなく、しかしきんと冷えた空気は怖いぐらいに澄んでいた。午前の儀式を厳かに終え、市民会館を出た新成人たちは思い思いに話をしている。そのうち、じゃあそろそろ移動するか、と誰かが声をあげ、私たちはぞろぞろと目的地へ向かった。
 向かった先は中学校だ。あらかじめ、みんなで集まると教員に連絡を入れた者がおり、校舎内にある小さな中央ホールには心地好く暖房が効いていた。
 しばし談笑を楽しみ、私はゆっくりとひとり図書室へ向かった。新成人たちが懐かしさのあまりあちこち覘き見ることを見越して、鍵は開けられている。
 きし、と軋む床に足を滑らせ、私は図書室の床に空いている、異様な雰囲気のする黒い穴の前に立った。もうわかっている。これは、私が待ち望んだ世界に続く穴だ。
 途端に、切なさで心臓が締め付けられた。それは、懐かしさの所為ではなく、別れの寂しさの所為だ。懐かしさで胸が高鳴っていると同時に、息ができないほどに心臓がきゅっと縮まった。私は深呼吸を三度繰り返す。
 この穴をくぐれば、私はいまいるこの世界と訣別する。目を閉じて、中央ホールにいるみんなのことを思い浮かべ、伯母を思い出し従兄弟を思い出し友達を思い出し職場の同僚を思い出した。
 ――大丈夫。
 大丈夫、心残りはない。実は、未練が残るのなら行くのをやめようと思っていた。本当の私の世界はここであり、今の機会を逃して例えば十年後にまたお迎えが来るとしても行かないと思う。そのころには、私は本当に自分の世界に馴染んでしまって、それを捨てることはできないだろう。
 だからこれは最後のチャンスだ。
 会いたい。会いに行きたい。
 ――たとえすべてを捨てても。
 そうして私は、再び別世界に足を踏み入れた。


 薄暗い図書室から黒い穴を抜けた途端、眩しい昼の光が私の目を襲った。
 ぱちぱちと瞬きをして辺りを見回してみると、どうやらそこは城下町のようだった。上方に視線を向けると、坂の上にお城が見える。
「また、レイじゃなくてリキが召喚陣使ったんだなあ」
 私はひとりごちた。導師のリキはしょっちゅう小鬼に魔法陣をいたずらされているらしく、陣の魔法が狂ってしまうのだ。今回は、召喚先がずれてしまったらしい。
 ふむ、と息を吐いて私は舗道を歩き始めた。今日はローヒールだからそんなに足も疲れない。私は、成人式が終わったばかりの、黒いパンツスーツ姿のままだった。これでもいろいろ考えたのだが――振袖でやってくるよりも万倍ましだろうと。
「あのう、魔王の城ってどこですか?」
 我ながら相当間が抜けた質問だな、と思いながら、私は露天で野菜を売っているおばちゃんに声をかけた。
「あら、あんたも逃げてきたクチかい?」
 意外にもおばちゃんは朗らかに返事を返す。よくよく話を聞いてみると、ここから見える城が間違いなくレイの――魔王の城で、ここはその城下町にあたる。と言っても、ここらに住んでいるのはほとんどが人間だ。この町は魔王と契約を結んでいるため、魔の者に襲われなくて済むらしい。ただ、やっぱり働き手とか、収穫の一部とか、年貢みたいなものは納めないといけないみたいだけど。
 とは言え、ここ何年かは人間の国に攻め込むこともなく、平和に暮らしているのでわりと住み心地はいいんだそうだ。気候が住み良いらしい。
 それから私は、この辺りに住むならどんなところに働き口があるのかを聞いてみた。この世界に再来したならどこかで働こうと、そのことはずっと考えていたのだ。前回の私は、この世界においてただのお客さんだった。でも今度は、住人としてやって来たつもりだ。この世界の住人であろうとするならば、ただ遊んで暮らしているわけにはいかない。
「それなら、お城に行けばいいよ。衣食住与えてもらえるし、任期が終われば辞めてもいい。半年ごとに、それなりの俸給ももらえるようだしね」
 あっけらかんとおばちゃんは言った。この辺りは、魔に怯えるものもいればまったく気にしないものもおり、二極化しているらしい。商人はたいがい後者だ。
「ああ、ちょうどお城の魔人が来たよ。訊いてみればいい」
 なんというタイミングの良さか。おばちゃんの声に振り向いてみれば、こちらに歩いてくるのはシュラとリキだった。
 剣士シュラと導師リキ。私が初めてこの世界に訪れたとき、最初に会ったのが彼らだった。
 彼らは私の姿に気がつき、はっと足を寄せた。


「おい、そこな娘」
 シュラのおざなりな声に、私の感動はばりーんと破られた。続いてリキが言う。
「おい娘、おまえのような黒髪の少女を探しているんだ、知らないか?」
 二人はじろじろと私の姿を見る。娘か、いや娘だろう、とひそひそ声で失礼な会話を交わしている。どうもこの世界で女性がスカートをはいていない、というのは相当奇異なことらしく、ついに私の性別まで疑いだしたのだ。こんな二人に私を見分けられるべくもなく。
「おまえのような黒髪で」
「黒い目で」
「髪の長さは肩ほどで」
「十ばかりの愛くるしい娘だ」
 いまや感動のシーンは跡形もないほど崩れ去った。馬鹿者どもが! いつまでも同じ姿をしているわけがないだろう。それ以前に、彼らと別れたときすでに私は十五だったはずなんだけど。ちなみに現在の私の髪は肩よりも長く、ねじってバレッタで留めてあった。
 私だよ、帰ってきたんだよ、と言いたかったけど、その言葉は咽喉の奥に固まったまま転がり落ちてはこなかった。代わりに私は、社会人になってから身に着けた愛想笑いを顔に貼り付けた。
「さあ、存じませんけど。それよりも私、職を探しているんです。お城で雇っていただけませんか?」


 私は、高校生の頃のことを思い出した。あちらの世界に帰ったあと、伯母さんに相談して高校に行かせてもらうことになったのだ。私は素直に、伯母さんに感謝した。退職してアパートを引き払って、こちらに来る決意をしたとき、ちゃんと伯母さんの口座に当時の学費はできるだけ返還しておいた。
 その高校生の折、一度だけあちらとこちらの空間が繋がったことがある。授業中にノートを取ろうと、筆記具の入っているカンペンを開けたら向こうの世界があったのだ。どうやらどこかの部屋の天井付近と繋がってしまったらしく、私は授業中の机の上からシュラとリキの会話を盗み見た。音声はなく姿だけで、やっぱり小鬼が陣をいじって妙な繋がり方をしたらしい。
 私は平静に授業を受けるふりをしながら、込み上げる涙と必死に戦っていた。彼らは、私に会おうとしていたのだ。約束の日が遙かに先だったとしても。
 それほどまでに私を愛してくれる彼らに、とても告げることはできなかった。
 私がどんなに変わってしまったかということを。もう子供ではない、あなたたちの求める無邪気な少女にはなれない、ということを。
 ――そんなこと、どうして言えただろう。


 五年あれば、変わってしまうことなどたやすい。
 もともと私は同級生たちと比べるとしっかりものだったし、この世界には弱っていたときにやってきたわけで、風邪を引いた子供が母親に甘えるようにみんなに甘えていただけだったのだ。だから私は、自分のことは自分でやりたいし、地に足着けて生きていきたい。
 やっぱり私は、シュラやリキの望む姿ではいられないんだろうな、と思った。
 でも、本当に彼らには感謝している。おかげで、私は満たされた。だからこそ、私が誰であるかを告げることをためらっている。彼らがどう思うかを考えると、知らないままでいい、とまでも思ったりした。
 この城で雇われるものは、一度、魔王であるレイにお目通りしなければならないらしい。妙なやからが城に入り込むのを防ぐためだ。
 そして私はレイに会うのは三日待ってほしい、それまでは正規雇用でなくても働くから、と告げた。
 心の準備が欲しかったのだ。私を迎えに行く時期を読んだのはレイだろうし、勘の鋭いレイは私のことを見抜いてしまうだろうと思った。それを知って、どう思われるのかが怖かった。
 ――でも本当に怖いのは、レイにすら気づいてもらえないことかもしれなかった。
 会いたい気持ちと逃げたい気持ちの上で揺れ動き、私は三日目に白い獣に出会った。以前、城にいたときに良く遊んでいた、狼に似た大型の獣だ。
 彼は私に歩み寄り、膝の辺りにふんふんと鼻を押し付けた。それを見て、私の近くにいた侍女がぎょっとして後ずさる。魔人に耐性はできても、普通の人には魔獣に慣れることは難しいみたいだ。
「私を覚えてるの?」
 囁くように語りかけ、私は床に膝を付いて両手をそっと差し出した。近寄った獣は、私の腕の中で大人しくしていた。
「ただいま、オウリン」そっと呼びかけると、オウリンは耳をぴくりと動かした。抱き締めた温もりが懐かしすぎて私は泣きそうな気分になる。
 そうして、安堵した私は、一番大事な気持ちを思い出した。
 そう、この世界のどこかに、私を思ってくれる人たちがいるということ。
 同じ大地の上で生きていると知っているだけでいい、それだけでいいじゃないか、と思った。変なことを考えたり、期待したり、恨んだりするのは間違っている。
 城を出て、城下町に下りよう、と素直に思えた。私は幸せだ。この世界で生きられるだけで、ほかにはなにもいらない。
 室内に風を入れようと窓を開け、私はバルコニーへと踏み出した。その足元を、オウリンがとことことついてくる。見納めとばかり城の様子を眼に焼き付けていると、下をレイたちが通りかかった。
 まずい、と思ったときは既に遅く、こちらを振り仰いだレイは良く通る声で叫んだ。
「スモモ!」
 ――身を切り裂かれるような思いと、切なさで胸が詰まった。


 急な展開にあたふたしていると、階段を駆け上ってきたらしいレイとシュラとリキが開け放っていた扉の付近に現れた。早い! 早すぎるよあなたたち!
「あ、えっと、久しぶり?」
 首を傾げつつ言ってみると、かすかな頷きが返ってきた。その態度には、いくばくかのためらいとか戸惑いとか、そういうものが混じっていた。それが、なおさら私の胸をぎりぎりと締め付ける。
 ごめん、ごめんなさい。あなたたちの望む私でいられなくて。
「なぜ、黙っていた」シュラが勢い込んだように言う。
「ごめんね、ちょっとびっくりさせたくて」胸のうちを押し隠し、にっこり笑って私は言う。
「そうか。おかえり」
 柔らかく笑んだレイがそう言って、私は「ただいま」と答えた。
 そうして私はぎこちないながらも、再び彼らの生活に混入したのだった。


「オウリンーふかふかー」
 きゃーと小さく歓声を上げて、私は白い獣に抱きついた。床に転げてオウリンと戯れる私を、シュラとリキはソファーからつまらなさそうに見ている。
「そいつとはそんなに遊んでいるのに」
「なぜ私たちには他人行儀なんだ」
「いや、同じにはできないでしょ」私は苦笑して返す。
「なぜだ」
「なぜだ」
 私は頭を抱えたくなった。どうも、この魔人たち、人とは感覚が違いすぎるような気がする。中学生の頃ならいざ知らず、いい歳して抱きついたり甘えたりできるかどうか、いっぺん考えてほしいと思う。私の目からはレイは二十代半ば、シュラとリキは三十路すぎぐらいに見える。シュラとリキを恋愛対象外だと切り捨て宣言をした、当時の私を呪ってやりたい。
「あっ、そうだー、今日は私が紅茶入れてあげるよ!」
 私は思いっきり話を逸らして立ち上がった。いい具合にポット内で茶葉が蒸れた紅茶を注いで、はいはいとお給仕をしていると、二人は感慨深げに溜息をついた。
「そういうこと、できるようになったんだなあ」
「前は、してもらうがままだったスモモがな」
 ちょっと恥ずかしくなって、私は顔を赤くした。
「いつまでも子供だと思わないでよ、もう大人だし。だいたい、あっちの世界でもこういうことちゃんとやってたし!」
 勢い込んで反論すると、二人は黙ってしまった。
「また、あちらの世界の話をするんだな」
「……帰りたいのか?」
 そうしてまた、二人との間に溝ができる。
 どうしたら、どうしたらいいのかなあ、私は。


 バルコニーで、私は夜風に吹かれていた。夜が寒ければ寒いほど、夜風が冷たければ冷たいほど、それに当たっていたかった。どうしたらいいのかわからなかった。
「スモモ」
 一人で隅っこに座っていたら、隣の部屋からレイがやってきた。そりゃそうだ、いくら灯りを消していたって、窓全開でカーテンがばたばた狂ったように舞っていたら気になるに決まっている。
 私は、どこかでレイが来ることをわかっていた。無意識にわざとそんな素振りをして、彼に甘えているのだ。それが、私にできる精一杯の譲歩の、甘え、だった。もっとオープンに、話を聞いてほしいって、飛び込んでいけたあのころの私はどこに行ったのだろう。
「星が、星がね、あっちの世界で見える星と同じかなあ、と思って」
「そうか」
 私の妙な台詞に頷いて、レイは私の隣にゆっくりと腰を下ろした。
「……レイは、なんにも言わないんだね」私は、安堵とその正反対の気分で息を吐いた。「あっちの世界、思い出すよ、懐かしいよ。当たり前でしょ。私、みんなに言ったもの、こっちの世界を逃げ場所にしないって。だから私は、あの世界を、全力で愛したんだよ」
「ああ」
「みんなが、私と感覚が違うってことはわかってるんだけど。だから、怒ってるわけじゃないんだけど」
「そうだな。おれたちは待つことに慣れていない」
「え?」
 ――なに、なんだって?
「待って、待ちくたびれて、スモモが帰ってきたのに、また行ってしまいやしないかと勝手に焦っている。おまえの心が離れていきやしないかと勝手に気を揉んでいる」そうしてレイは、静かに、言葉を重ねた。「おれたちは、ある程度まで成長すると、体内時間を制御できるようになる。何百年も、何千年も生きることも可能だ。その分、時間の感じ方は緩慢になるが。だから、五年の歳月など、おれたちにとっては一瞬の月日に過ぎない」
 私はぱちくりと瞬きをした。それは、確かに、感覚が違いすぎる。
「だが、シュラとリキがな、それは不公平だと。おまえが待つだけと同じ歳月をおれたちも待たなければと、スモモと同じ歳月を分かち合わなければならない、と。そう言ってな、だからやめた」
「やめたって……」
 では彼らは捨てたのだ。私のために、何百年、何千年もの生を。
 そして私は、声を殺して泣いた。恥ずかしさと嬉しさと切なさが募って、吸い込む空気が冷たくて、胸の奥がひりひりと痛んだ。
 ――私は、ひとりだけ大人になったつもりで、いい気になっていた。ひとりで不幸を引き受けたような顔をして、悦に入っていたのだ。
 私が変わってしまったからといって、互いの想いが消えてなくなるわけじゃないのに。
 私がひとしきり泣いてしまうまで、レイは黙って待っていた。
「スモモ」
 染み入るような声で呼ばれて、私は顔を上げた。銀の髪が、夜空に映えて月の光のようだった。
「あのころのおまえは、自分のことで泣いてばかりいた。おれたちのために泣くようになったのが大人になるということなら、おれはスモモが大人になったことを嬉しく思う」
「うん、ありがとう……」
 レイが少し近づいて、私の両肩に手を触れる。
 額に、柔らかくてあまい感触がした。


「シュラっ! リキー!」
 夜中なのに大声を上げてリキの部屋に飛び込むと、隣の部屋から慌ててシュラがやってきて、ちゃんと私の相手をしてくれた。
 床にべったりと座り込んでしまった私に合わせて、二人ともが屈み込む。私は左手にシュラの指を、右手にリキの指を、両手に抱え込んで痛くなるほどにぎゅっと握り締めた。
「どうしたスモモ」
「顔が赤いぞ、具合でも悪いのか」
 よほど私がすごい形相でもしていたのか、二人は本気で心配してくれた。
「ちょっと、レイ、レイが……!」
「陛下が」
「どうした」
「お、おでこにちゅーされた……! なんなのあれ、挨拶? 挨拶なの!? にーさんらの感覚がわかんない……!!」
 どういう、どういう反応を返したらいいんですか。
 焦ったようにまくしたてる私に、二人はきょとんとした反応を返す。本当に、人間と感覚違いすぎるんじゃないのかこの人たち。その証拠に、
「なんだ、口付けが欲しいのか」とシュラ。
「違っ……!」と言ってる間に、ほっぺにちゅーされた。やめろ。やめれやめてくれ。
「どうした、泣いたのか」とリキはご丁寧に涙の跡の残る目尻に口付ける。
「ちょっと!」
 おかしい! あなたたちの感覚はぜったいにおかしい!
 ――この人たちは実に私に甘い。べった甘だ。やっと腕の中に飛び込んできた私を、構ってやれるのが嬉しくて仕方がないらしい。
 そんなわけで、あっさりと仲直りできたのはいいんだけれど、過保護なシュラとリキが、私を働かせてくれないのには難儀する。
 だから、私は求職中なんだってば。
 誰か、私に仕事をください。

<了>


novel

2008 02 25