遊び疲れたあたしは、部屋に戻って一眠りした。カタリ、という音で目が覚める。誰かが部屋に入ろうとしているらしい。しかしあたしは緊迫感というやつをまったく感じなかった。明かりは晧晧とついている。部屋の外にはたぶん、例の狼もどきがうろうろしていることだろう。つまり、不審人物が押し入るような雰囲気ではなかったのである。
 しかし、その人物が部屋に入ってきた瞬間、あたしは我知らず大声を上げていた。
「うわああっ」
 銀髪と銀の双眸を持ったそのにーさんは、全身血まみれだったのだ。まさに満身創痍という感じ。あたしの目の前まで来ると、にーさんはべたりと床に座った。観察するようにあたしを見ている。
 こんなときどうすればいいかなんて、あたしは知らない。手当てをするべきなのか誰かを呼ぶべきなのか。でも言葉すらわからないのだ。混乱の極みに、気づけばあたしは泣き出す一歩手前だった。まったく、涙の制御装置は壊れっぱなしだ。
 あたしが洟をずずっと啜ると、にーさんはひどく冷ややかに目を眇めてなにかを言った。
――――
 むむ、やっぱりわからない。役立たず、とか言っているのかもしれない。涙を払って立ち上がると、あたしは布を濡らして持ってきた。この部屋はなんと、バス、トイレ、洗面所完備なのだ。誰のための部屋かは知らないけど、すごい贅沢。
 にーさんと向かい合うように座って、あたしはにーさんの顔を拭っていった。さっきの切れるような雰囲気とは裏腹に、にーさんは大人しくされるがままになっている。顔の血は案外あっさりと拭い去られた。
「あれっ」
 あたしは思わず間抜けな声を出した。にーさんの顔はすべすべだった。どこにも傷なんてない。
「ちょっと待て」
 あたしは血の滴りそうなにーさんの上着を脱がせる。厚手の上着の下には、どこにも血なんかついていない。思わずあたしは確かめるように、にーさんの腕やら胸やらをべたべたと触った。
「びっくりさせないでよ……」
 あたしは脱力してへたり込んだ。にーさんはどこにも怪我なんてしていない。これは全部返り血だ。ほっとしたあたしを見て、にーさんはあたしの勘違いに気づいたらしい。くくく、と笑い出した。
 なんつう人騒がせな。睨んでやろうとして、あたしはとんでもないことに気がついた。
 ――ちょっと待て。てことはつまり、あたしは怪我もしていない人の服を引っぺがして、挙句、あちこち撫でまわしていたということか。
 途端に悶絶しそうになった。シュラやリキよりも確実に、このにーさんはあたしに歳が近いと思う。そのことが余計に、気恥ずかしさを倍増させる。もう逃げたい。
 気まずくなったあたしは、話題を変える術も持たない。最悪だ。そのときあたしはふっと思い出して、すももドロップスを取り出した。一個自分で食べて見せてから、えいとにーさんの口に放り込む。
「おいし?」尋ねてみると、
「スモモ」と返ってきた。
 一瞬呆けて、あたしはうんと首を縦に振った。そうか、にーさんはきっと、誰かにあたしのことを聞いてここに来たんだ。
「うん、すもも。李だよ」とあたしは自分を指差し、「あなたは?」とにーさんを指差した。
「レイ」と柔らかな声が微笑とともに降ってきた。


 レイを見送って半時ほどすると。
 にわかに城内が慌しくなった。小鬼たちがわらわら現れてあたしの手を引く。彼らについていくと、城内の者がある目的地へ集結しようとしているところに合流した。
 たどり着いたそこは、たぶん玉座の間とでも呼ばれているようなところなんだと思う。湯浴みしてさっぱりしたようなレイが玉座に座っていた。おお、王子様って感じだ。要人を護るように、傍にシュラとリキが侍っている。その様子を見るに、二人ともかなり階級が高いことがわかる。じゃあやっぱり、レイは陛下だか殿下だかいう人なんだろう。なんだか<王の帰還>って感じ。
 ちらりと目が合うと、レイはあたしに向かってなにかを言った。あたしは首を傾げる。今度は手招きをされた。近くまで来いってか。
 レイの傍まで行くと、彼はあたしの腕に軽く触れ、次いで肩をぽんぽんと叩いた。なんだろう。次にレイは、指先をあたしのおでこに当てた。急にその箇所が、いや、レイの指先が熱くなる。レイのさっきの素振りが、大丈夫、安心しろという意味合いだったと了解して、あたしはじっと我慢した。ぎゅっとつぶった目の奥がチカチカする。
 ふっと圧迫感が消えた。
「スモモ……スモモ、聞こえるか?」レイの声に、
「う、うん」とあたしは返事をする。
 ……あれ。あれれれ? 言葉だ。言葉がわかる。感動したあたしは「ウォーター!」と叫んでやろうかと思ったけれど、馬鹿っぽいのでやめた。どうせこのにーさんらには、ヘレン・ケラーなんて理解できまい。
 でも、感極まったあたしは手近な人に飛びついた。リキの首根っこに思いっきりかじりつく。これやってみたかったんだよなぁ。パパと愛娘って感じで。
「リキ、大好き!」
 リキはびっくりしたように目を見開いて、それからあたしをよいしょと抱き上げて頭を撫でた。
「悪かったな。おれの召喚術が失敗しちまって」
 ……あれは半分リキの所為だったんですか。
「んん? リキってもしや導師様とか?」
「おう」
 あたしは、人を見かけで判断してはいけないという教訓を得た。
「シュラは剣士だ。陛下の身辺警護を勤めている」
 げげ。剣士はシュラの方だったんですか。それでやっと、あたしはシュラが怒っていたわけを理解した。そりゃ怒るわな。王様の留守中に、城内に変なのを入れるわけにはいかないもんなぁ。
 あたしはリキからえいと飛び降りて、今度はシュラに抱きついた。
「シュラ、ごめんね!」
 見上げると、シュラは妙な顔をしていた。なんだあたし。またなんかやったのか。
「なぜ、リキには『大好き』で私には『ごめん』なんだ?」
「い、いえっ。シュラも大好きですっ」
 勢い込んであたしは答える。なんだそういう意味か。意外とこのにーさんの性格はわかりにくい。
 それであたしはやっと、肝心の人を置き去りにしていることに気がついて、慌てて向き直った。
「レイ、ありがと」と言って握手を求める。
 そんなあたしにレイは眉を顰めた。しまった。やっぱり陛下とか呼ぶべきでしたか。
「おれには抱きつかんのか?」
「はあ!? え、ええ、えっと」
 あたしは目を泳がせる。勘弁してください。これでレイが中性的な美少年だったら、あたしは躊躇しなくてすんだと思う。しかし、流れるような銀色に惑わされずに良く見ると、結構レイは男っぽい容貌をしているのだ。そんなの、意識するに決まってんでしょうが。
「おまえも、おれが恐ろしいか」
――は?」
 なんでそうなっちゃうわけですかレイさん。もしかして孤独の王様とかそういう人でしたか。もう、このにーさんも結構わかりにくい。
「……あのねえ、あたしにとってはシュラやリキよりもレイのほうが歳が近いの。恋愛射程内に入っちゃうわけですよ。意識したり恥ずかしかったりしちゃうんですよ。おわかり?」
 なにを力説してんだあたし。あああ、恥ずかしいっ。
 やっと理解したらしいお三方は、肩を震わせて笑い出した。
 なんだ失礼な。もう知らないっ。


 それから七日ほど経ったが、結局あたしは城で暮らしている。帰りたいとは言わなかった。気を使っているわけでもなく、そう思わなかったからだ。でも帰らないとも言っておらず、なんとも宙ぶらりんな立場だった。
 言葉がわかってからの生活はより楽しかった。もう大袈裟な態度で心意を伝えるということはしなくてもいいのだけれど、なんだかみんなあたしのことを実年齢よりずいぶん年下だと思っているらしく、すごく子供扱いをする。あたしはもう十五なんだぞ。と思ったが、なんだか悔しいので言わずにおいた。そうしてあたしは傍若無人な振る舞いを自分に許している。
 まあ一度ぐらいはきちんと振る舞ってもみたのだ。「閣下、本日はお日柄も良く、ご機嫌麗しゅうございます」とかなんとか。ドレスの裾をつまんだお辞儀付きで。するとものすごく渋い顔をされたのでさっさとやめた。あたしには似合わないってことだろうか。
 今日はなんだかバタバタしていた。なにやら城内が妙な気配に満ちているかと思えば、にーさんらはそろってこう言った。
「しばらく城を空けるから、いい子で待ってろ」って。
 あたしの表情は強張った。なにそれ、そんなの聞いてない。よってたかってあたしを手なずけておいて、なんであたしを置いていこうとしてるの。
「どこ行くの」震える声であたしは尋ねる。
「戦に」さらっと答えられた。
 あたしは言葉に詰まる。このにーさんらにとっては普通のことなんだろうか。あたしはその非現実さに、頭がガンガンするというのに。
「それってどうしても行かなきゃいけないの。自分たちの存亡がかかってるとか、そういうこと?」
 ああ、目の前が白くなる。あたしには戦なんて見当もつかない。我侭だってわかってる。でも「行かない」って言ってほしくて、言わせたくて堪らなかった。
「そういうわけではないが」
 それがどうかしたか、という調子で言われる。なんでこの人たちはこんな涼しい顔をしているんだ。あたしの気持ちには微塵も気がつきやしない。知らずまた涙腺が緩む。ここに来てからあたしは泣き虫になった。おかしい。あたしはこんなに弱くなかったはずなのに。
 人恋しい。
「じゃあ、行かないで。ここにいてよ。あたしやだよ、みんなが怪我したりいなくなったりするの。やだ……」
 思わずレイの服の袖をつかむと、なにを思ったか彼はふふと笑った。
「じゃあ、やめるか」
「え、いいの……?」あまりのあっさり具合に、あたしは耳を疑ってしまう。
「構わん。どうせ放っておいても煩わしいだけで害はない。人間どもなど見逃してやってもよい。新しい娘などさらって来ずともスモモがいることだしな。おまえ以上に懐く娘がいるとも思えん」
 ちょっと待て。待て待て。話についていけませんが。
「えっと……レイってなんの王様でしたか……」
「魔王陛下だ。なにを今更」
 さらっととんでも発言ですよシュラさん。まおーですか。
「…………」
 黙ってしまったあたしを見て、どうやらこの娘知らなかったらしいぞ的な空気が流れている。
 魔王って、魔王って黒髪だったり赤い瞳だったり耳が尖がってたりするもんじゃないのか。しないのか。なにげにあたし、世界を救ってしまいましたか。
「なんだそりゃ……」
 脱力して、それからあたしはけらけらと笑い出してしまった。だってあたし、忌み人は自分の方なんだと思ってた。害のない子どものふりを続けていたら、きっと受け入れてもらえるんだと思ってた。なのに取り越し苦労だったなんて。そんなのひどい。
「あーおかしい」
 目尻の涙を拭った。なんだかしてやられたような気がして、ものすごく悔しい。あたしは負けず嫌いなんだ。レイのポーカーフェイスを崩してやる。
 あたしは気を取り直して、にーさんらにビシッと指を突き付けた。
「ひとつ言っとくけど。あたしもう十五なんだから、いつまでも子供扱いしないでよね!」
 そう言われた時のやつらの顔は見物だった。


「ねえレイ、あたし帰る」
 部屋に入るなりそう言うと、にーさんらの目が一気にこっちを向いた。
「帰るって」何かの聞き間違いか、というようにリキが口を開く。
「うん、だから元の世界に帰るよ」
 あたしはできるだけ淡々と聞こえるように言った。ここで感情をにじませてしまっては駄目だ。
「帰れるんだよねえ」
 椅子の上のレイの足に手を置いて、見上げるようにそう言うと、レイはふっと息を吐いた。「ああ」
 それだけ聞けば充分だ。顔を上げるとあたしはすでに着替え終わっていた制服の腰に両手をあてて、にこっと笑った。
「スモモ、帰りたくないのではなかったのか?」
 シュラの瞳が心配げに歪んだ。初めて会ったときは、なんて冷たい目をしてるんだろう、なんて思ってしまったシュラは、実はいちばん過保護っぽい。
 あたしが一度も「帰りたい」なんて言わなかったから、依存するぐらいここの人たちに馴染んでしまったから、あたしの言葉はにーさんらにとって青天の霹靂だったのだろう。
「なにか不満があったか」ぽつりというレイに、
「ううん、そんなんじゃないよ、あたしは、帰らなくちゃいけないの」ただ明るく答えた。
 伯母さんや従兄弟たち、先生や同級生があたしのことを心配しているかもしれない。あたしに関心があるわけない、って思ってたけど、そんなことわかりやしないじゃないか。だっていままで、わかり合おうとしたことなんてないんだもの。たとえ心配なんてこれっぽっちもしていないとしても、あたしが突然いなくなれば迷惑をかけることは事実なのだ。
「あのねえ、あたし、ここが大好き。みんなが好きだよ」大事なひとことを形にするために、あたしはすうっと息を吸った。「――だから、ここにいることを逃げにしたくないの」
 このまま状況に流されていたら、あたしは嫌なこと全部放り出してここにいることになる。逃げるためにみんなを利用していることになる。
「だからあたしは自分で選びたい。逃げなんかじゃなくて、自分の世界と向き合ってみて、それでもやっぱりここがいいんだって、胸張って言えるようになりたい。そのために帰るの」
 あたしはいままで、なんにもしないでただ待っていたんだ。ここへ来てやっと、自分から感情を素直に伝えることを学んだ。それを試しもしないで、あの世界に見切りをつけるにはまだ早い。自分から関わろうとしないで、世界と繋がっていられるわけはないんだ。
「ねえリキ、あたしの世界に通じる召喚陣覚えたよね、あたしが呼んだら迎えに来てよ。レイ、あの部屋はあたしのだからね、別の女の子なんか入れちゃ駄目だよ。シュラ、心配しないで、これみんなで食べてね」
 あたしはシュラの手に、残り半分ほどになったドロップスの缶を押し付けた。あたしは、こんなものなくてもやっていける。だって、世界のどこかにあたしのことを思ってくれている人たちがいるってことを知ったんだもの。
「ささ、未練が残らないうちにぱぱっとやっちゃって」
 なにを言っても無駄と悟ったか、レイが椅子から下りると床にしゅっと光る円をかいた。その向こうに、ここに来る直前にいた学校の図書館が見える。さっすがレイ、お手軽だな。
「スモモ」
 情けなげに眉を下げるにーさんらを振り返って、あたしはしばしの別れとばかり一人ひとりに抱きついた。
「大丈夫」
 大丈夫だよ、あたしは。親からもらったのは名前だけじゃない。この身体で、手で声で耳で、あたしは世界と繋がっていける。大人になったらもう何に縛られることもない、あたしは自由だ。だからそれまで、あたしはあたしの世界をちゃんと見ようと思う。
「スモモ、必ず迎えに行くから」
 レイの声を背にして、あたしは光る円の中に足を踏み入れた。

<了>


あとがき
back/ novel

2005 10 21(ラストシーン改稿2006 06 18)