満ちる月の瀬

――これだったら確か、図書室に現代語訳の本があったよ」
 古典の教科書片手につぼみに尋ねられ、朔夜さくやは軽く解説を交えながらもそう答えた。
 その答えを聞いたつぼみはふんと頷いて、
「じゃあ、図書室行ってくる」
 と躊躇もなく立ち上がった。それを見送って、朔夜はふうと息を吐く。
 以前なら、面倒だ何だと理由を付けて、図書室までは足を運ばなかった。その頃と比べると、つぼみは存外真面目に勉強に勤しんでいる。
 部活動が上手くいくようになったからだろうか。学年も上がり、大学受験が見えてきたからだろうか。つぼみは、いつの間にか少しずつ落ち着きを覚え、勉強の手間も惜しまないようになった。
 朔夜とは進級しても同じクラスになった。ときどき朔夜が勉強をみてやるのも相変わらずだ。
 朔夜の方は、背が五センチ伸びた。髪は三つ編みをやめて、肩口で切った。見た目が少し変わったぐらいで、中身はそのままだ。多少背が伸びたからといって、平均より小さいことには変わりがないし、背の高いつぼみから見ると明らかにチビのままだろう。
 ――でも、つぼみはもう、朔夜のことを「チビッ子」とは呼ばない。
 たまの軽口はあっても、一方的に朔夜をからかわなくなった。それが、何だか落ち着かない。
 先ほど、図書室に行くと言われて、朔夜は内心ほっとしていた。
 つぼみと一緒に居なくて済むからだ。最近、朔夜はつぼみと居ると、胸の中がちりちりするような、ひりひりするような気がして、逃げ出したくなる。
 話しているときは気にならないが、ふっと沈黙が訪れた時や、つぼみの横顔を見た時。じわじわと、焦燥のようなものがせり上がってくる。
 ――もしかすると、嫉妬なのかな、とも思う。
 たまに、つぼみが知らない男の人のように見えるときがある。一足先に大人になりつつあるような雰囲気が、朔夜の焦りを呼んでいるのかもしれなかった。
 また、ふうと息を吐いて、朔夜はペンケースを鞄へと仕舞った。


 自動販売機の横で朔夜が紙パックのジュースを飲んでいると、つぼみがやって来た。
 よう、と手を上げざま、販売機にちゃりんと硬貨を落とし込む。
 がこん、とパックが取り出し口に落ちる。そうして、つぼみも朔夜の隣でジュースを飲み始めた。
 磨き上げられた廊下に、ちゅーちゅーとストローを吸う音が漂う。沈黙に目をさまよわせ、朔夜は足元に視線を落とした。つぼみの上履きが視界に入る。足も大きい、と今さらながらに思う。
 ふいに頭を撫でられ、朔夜はぎょっとして飛び上がりそうになった。
「な、なにっ!?」
「いや、撫でやすい位置にあるなー、と」
 慌てた朔夜がおかしかったのか、つぼみはククッと笑いながら答えた。
 朔夜は思わず背を向けた。頭を撫でられたのは初めてだ。髪を切った所為なのかもしれなかった。髪を束ねていたなら、指が引っかかるからむやみと撫ではしないだろう。
 それとも、頭を撫でたのは――つぼみの余裕だろうか。
「なんだよ市橋いちはし、怒ったのか?」
「お、怒ってない」
 朔夜は慌てて向き直った。
 いま、胸の中がざらっと嫌な感じになったことには気付かないふりをして、朔夜は飲み終わったパックの底を開いて潰した。


「委員長、プリント」
 放課後、声を掛けられ朔夜が振り向くと、クラスメイトの女子がプリントを片手にひらひらと振っていた。
 先日取りまとめた文化祭のアンケートだ。提出期限を過ぎており、どうしたらいいかわからないと言うので朔夜はそれを預かった。今月いっぱいは、担当の係がまだ受け付けてくれるはずだった。
 朔夜は相変わらず、クラスの委員長をやっている。成績も優秀なので、勉学に負担を掛けているというほどでもない。慣れてしまって習慣のようになっている所為もあるが、不思議と辞めようとは思わなかった。
 女子を見送り、朔夜は自分の机の上に腰掛けようとした。背が低いので、よいしょ、と少しだけ勢いを付ける。
 先ほどの女子は朔夜よりは背が高いが、平均的な身長だった。
 朔夜は、以前ほどは相手の顔を見上げなくてよくなった。女子の身長における五センチというのは大きい。背が伸びたおかげで、朔夜は女生徒と話すときに身長差を意識することが少なくなった。
 それでも、つぼみに対しては論外だ。たとえ五センチ伸びようと、彼の視線が見上げるほどの位置にあることには変わりない。つぼみは、いつまでも大きかった。
 ――背が低いことは、朔夜のコンプレックスだった。
 胸の中がじりじりとくすぶるのは、つぼみが大きいからだろうか。嫉妬と、憧れがないまぜになっているのだろうか。
 以前は気にならなかったはずなのに、なぜ今になって、と朔夜は思う。
 朔夜は、机の横に引っ掛けた鞄を取って、膝に乗せた。プリントは明日持っていくことにして、机の中に仕舞う。
 窓の方を見やると、夕陽のオレンジ色が、ざあっと教室内を染めていた。秋の終わりの日は短く、野球部のバットの音と、運動部員の掛け声だけが三階にまで届いている。
 少しぼんやりしているうちに、夕陽の色はどんどんと暗くなっていた。
 我に返った朔夜が帰ろうとした時、教室のドアがガラッと開いた。
――なんだ、おまえもまだ残ってたのか」
 つぼみだった。今日も図書室に寄っていたらしい。勉強熱心なことだ。部活も夏には引退して、受験勉強に本腰を入れている時期だった。
 つぼみは朔夜を追い越して自分の席に行くと、英和辞典を取り出して鞄に入れた。彼も、もう帰るところらしい。
「電気消すぞ」
 つぼみがそう言って、教室の電灯がぱちんと消される。
 夕闇を背に立ち上がったつぼみは、黒い壁のようだった。教室の入り口から廊下に立ち尽くした朔夜に向かい、つぼみはのしのしと近づいてくる。
 それを見て朔夜は、すぅ、っと血の気が引くのがわかった。
 ああ、嫉妬ではなかったのだ。
 ごくりと、自分の咽喉が動くのがわかった。
 朔夜は、つぼみが――怖い。
 足元がおぼつかなくなって、朔夜はふらふらと廊下の壁に背を押し付けた。
「市橋?」
 怪訝そうなつぼみの声が、朔夜を呼ぶ。触れようとしたのだろうか、目を見開いた朔夜に向かって、つぼみの掌が影のように伸びてきた。
「いやっ」
 朔夜は思わず、身を護るようにその場にしゃがみ込んだ。
「い――いち、はし……?」
 呆然と、つぼみが呟く。はっとして、朔夜は慌てて声を上げた。
「ご、ごめん、帰るね!」
 朔夜は顔も見ずに駆け出した。ばたばたばたと、底の薄っぺらな上履きから足裏に伝わる衝撃が痛い。両腕の間に抱えた鞄を、ぎゅっと抱き締める。
 必死で走るのは、その場から逃げ出したかったから。
 ――そして、追い付かれるのが怖かったからだ。


 朔夜は、つぼみのことが怖い。
 そのことに気付いてしまった。
 今まで、気にならなかったわけではなかったのだ。朔夜は確かに、つぼみに向かって怖いと訴えたことがあった。
 背が高くて大きくて、力が強い。そんな相手と向かい合う自分はなんとちっぽけなことか。吹けば飛ぶような己の頼りなさを意識してしまい、コンプレックスが増幅されるというのもあった。
 そのことに、朔夜はいままで蓋をしてきた。
 今になって急に怖くなったのではない。今まで、克服なんてしていなかったのだ。
 ――きっかけは、つぼみが少しずつ大人びてきたことだった。
 朔夜が今まで人と対等でいられたのは、彼女が委員長だったからだ。成績優秀な委員長であることは、朔夜にとっての剣であり、そして自身を守る盾でもあった。自身を支えるものがなければ、人と対峙できなかった。
 帰り道、込み上げてきた涙を、朔夜はごしごしとこすった。
 ――なさけない。
 結局のところ、朔夜はつぼみを見くびっていたのだ。
 短気で、子供っぽくて、勉強も不得意で、自身のコンプレックスに悩んでいる男子。朔夜が出会ったつぼみは、そんな男の子だった。
 体格と力だけは逆立ちしたって敵わなかったが、それ以外では朔夜が勝っていた。それを、つぼみは一つ一つ克服してきたのだ。
 強くなった。
 それに伴い、朔夜の持っている武器は、一つずつ役に立たなくなった。
 本来なら、つぼみの成長を喜ぶべきだろう。それなのに朔夜は素直に喜べなかった。少しずつ、じりじりと追い詰められているような心地だった。
 丸腰で、つぼみの前に立つのは怖かった。
 まやかしの壁は崩れ去って、朔夜はいま、何もかもを悟ったのだ。
「どうしよう……」
 自身の器の小ささを、朔夜は知った。なさけなかった。
 それにもう、つぼみには嫌われてしまったのかもしれなかった。
 つぼみは、朔夜が怖がっていることに気付いただろう。彼はそこまで敏い男子ではないが、朔夜のことは知っている。朔夜が、自分の優位が崩れることを恐れていたのだと、きっと、遠からず思い至る。
 明日からどんな顔をして会えばいいのだろう、と朔夜はまた溢れてきた涙をこすった。


 次の日は、雨が降っていた。
 朔夜の気持ちを表すような陰鬱な雲が、ダークグレイに空を走っている。ぱしゃぱしゃと、水たまりに大粒の雨が何度も飛び込んだ。
 つぼみとは口をきかなかった。近づかないようにしていた。
 教室の窓を見ると、ぶつかってきた雨粒が自身を支えきれず流れていく筋が、ガラスに幾通りも這っている。窓の近くまで伸びていた枝が、雨に打たれてぱさぱさと揺れた。
 何事もなく放課後になったが、その後は何事もないとは言えなかった。
 朔夜はその日、日直だったのだ。日誌を書かなければいけないのに、焦れば焦るほど手が止まる。
 つぼみが、席に座ったまま、朔夜を見ていた。朔夜がいつだったか、話をするために教室から人がいなくなるのを待っていたときのように。
 背中に視線が刺さるのを感じて、朔夜の不安は膨れ上がった。
 なんとか日誌を書き終えたときには、他の人はいなくなっていた。帰り支度を済ませて立ち上がった時、待ち構えていたかのように声が掛けられた。
「市橋」
 ぎくっと朔夜の肩が跳ねる。恐る恐る振り向くともう、すぐそばに、つぼみがぬうっと立っていた。朔夜は慌てて視線を外す。
「……つぼみくん」
 朔夜の返事は、ささやくような声になった。
「こっちを見ろ」
 決して怒鳴ってはいないのに、圧のある声は、朔夜を押しつぶしそうだった。無意識に、足が退路を探している。
 大きな手が伸びてきて、朔夜の腕を掴んだ。思わず、いや、と泣き出しそうな声を出してしまう。
 ぐいと腕を引かれて、朔夜は抵抗の間もなくつぼみの胸にぶつかった。冬服だからなまの感覚ではないのに、空気が熱くなるのを感じて、朔夜は戸惑った。乱暴にされた所為で、手にした鞄と日誌は床に落ちている。
「……逃げるな」
 きしむような、つぼみの声がした。つぼみの抱擁は、逃げ出せないほど強いのに、痛くはなかった。
「……つぼみくん?」
 つぼみの声は、予想に反して怒ってはいなかった。怒ってはいない。ざらついて、掠れて、それはまるで――
「おれは、おまえが小さいのが怖い」
 ぽつりとつぼみが言った。
「……おまえを、傷つけるのが怖い」
 抱き締められていて顔は見えなかったが、押し殺すようなその声でわかった。かすかに震える腕の強さでわかった。
 つぼみは怒ったのではない。――傷ついたのだ。
 つぼみの恐れは、朔夜のそれを鏡に映したようだった。つぼみにだって、怖いものはある。
「……ごめんね」
 おずおずと、朔夜はつぼみの身体に両腕をまわした。
 ふいに、恐れがなくなった。
 つぼみを途方に暮れさせているのは、朔夜だった。身体が大きくても小さくても、人を傷つけることはできるのだ。そんなわかりきったことに、朔夜はやっと気が付いた。
 自分の恐ればかり、見つめていてはいけなかった。
 ほうと朔夜は息を吐く。
 さらりと髪が落ちかかって、朔夜は、髪を撫でられていることに気付いた。つぼみの指が触れる感覚に、先ほどとは違う戸惑いが、熱く咽喉を上がってくるのを感じる。
「つ、つぼみくん……? ちょっと離れようか……?」
 急に恥ずかしくなって、朔夜はつぼみの胸をぐいと押したが、びくとも動かなかった。
「いやだ」
 先ほどのしおらしさはどこへやら、つぼみのふてぶてしい声が答える。朔夜がもう恐れてはいないことを、わかっている声だった。
 低く憎らしい笑い声が、朔夜の耳に届く。
 そうして朔夜は、えいえいと虚しい抵抗を続けたのだった。

<了>


novel

2017 06 05