花咲くつぼみ

「チビッ子。この問題教えて」
 再提出となった古文のプリントと格闘していたつぼみは、帰り支度を終えて席を立った少女に声をかけた。チビッ子と呼ばれた当の朔夜さくやは、それを鷹揚に聞き流す。呼び名を今更訂正する気にもなれないようだ。
「図書室に行けばいいのに。クーラーは効いてるし、辞書だって置いてるよ」
「やだ」眉根を寄せ、つぼみはすっぱりと拒絶の意を示した。
「テスト前だから人がいっぱいいるじゃん。声でも出したら殺されそう」
 はいはいと呆れたように返事をして、朔夜はつぼみの席の手前にある椅子を引いた。面倒見の良い委員長の朔夜だが、ひとつだけ著しく威厳を損なっている点がある。圧倒的に背丈が足りないのだ。
 机を挟んで向かい合うと、平生よりも視線の差がつづまる。それが珍しくて、つぼみは朔夜の顔をじろじろと見てしまう。
「なに笑ってんの」気づいた朔夜は、居心地悪げにつぼみを睨む。
「チビッ子、おれの顔なんて普段は見れないだろ。この機会だから、よーっく目の保養をしておいたほうがいいぞ」
「なに寝とぼけたこと言ってんの。だいたいつぼみくんだって、普段私のつむじしか見れないくせに」
 うっ、と痛いところを衝かれたつぼみ。
「はいはい、課題やっちゃうんでしょ」
 さらり流して、朔夜はプリントに取り組んだ。
 つぼみが名前で呼ばれていることに特別な意味はない。彼のフルネームは山本つぼみという。このクラスにはもうひとり山本という姓の男子がおり、区別のためにつぼみが名前で呼ばれているだけである。つぼみ、と呼ばれるたびに彼の胸にきりきりと積もるものがある。
 ――気づいてねぇんだろうなあ……
 ぼんやりとつぼみは朔夜の眼鏡を見つめる。
 ともあれ、彼の課題は終了した。
「おーし、できたっ」
 大仰な振りで両手を挙げ、つぼみは椅子を蹴倒すように立ち上がった。それに反応した朔夜が、はっと息を呑んで怯えたように身を竦ませる。その様子を見やって、つぼみは機嫌を損ねて口を尖らせた。
「なんだよチビッ子、おれがいじめてるみたいだろ」
「ごめん……だって、怖いんだもん」
 そろりと目線を合わせた朔夜に、ハンマーで殴られたような衝撃を受けてつぼみは声を失った。おれ、何かしたか? とパニックに陥りつつ、必死で考えを廻らせる。
「あえていうなら、でかいってことがか……?」ちらと朔夜を見やれば、否定した様子は見て取れない。ちなみにつぼみの身長は一八四センチである。「あ、あのなあ、そんなことぐらいで……」
 憤慨というよりは狼狽の色濃くつぼみが言えば、
「つぼみくん、私が何センチあるか知ってる?」
「や、知らない」
「一四六」
 つぼみは絶句した。その差、約四〇センチ。それほど小さいとは思ってもみなかったのだ。
「て、ことは……」
 つぼみは自分に置き換えて換算してみた。対峙しているのはおおよそ二二〇センチの男である。体格差を入れれば、プロレスラー並の岩のように屈強な大男。男女差を考慮すれば、相手はこちらに懸想する可能性もあるということで。
 つぼみはさっと色を失った。怖い。それは怖い。というよりも嫌すぎる。
「つぼみくん?」
 黙り込んでしまったつぼみに、朔夜は訝しげに声をかけた。
 つぼみは思わずがしっと朔夜の肩をつかみ、熱っぽく語りかけた。
「おれ、おまえを尊敬する」


 バシャバシャと水の撥ねる音が響いた。校庭の隅にある水飲み場で、流れる水につぼみは頭を差し出していた。既に髪も首周りもしとどに濡れている。
「ちょっとー、つぼみくん? 溺れちゃう気?」
 冗談めかした声が降ってきた。もちろん水はきちんと排水溝に流れるので、溺れる気遣いはない。
 頭を起こすと、朔夜と目が合った。彼女は、蛇口の伸びているタイル壁の上に頬杖をついている。壁の反対側にも同じように蛇口が並んでいるため、そこをよじ登ったらしい。
「……なんだよチビッ子。なんか用?」
「ああら、機嫌悪い。さては部活で嫌なことでもあったかな」
 またも俯いてしまったつぼみに鋭い指摘をして、朔夜は壁の上にたたんであるタオルを手に取った。そのまま身を乗り出すと、彼女はつぼみの髪をごしごしと拭き始めた。
 いつもなら軽く手を振って追い払うところだが、弱っているつぼみはされるがままになっている。
「つぼみくん、拭き難い。そっちまわるからしゃがんでよ」
 緩慢な動作でタオルを取り上げ、つぼみは丸めていた背を伸ばした。
「つぼみ、つぼみってうるさいんだよ。そう呼ばれるおれの気持ちなんておまえにわかんねぇよ」
「わかんないわよ」固い声で、容赦なく朔夜は言い放った。
「つぼみくんの気持ちなんて私にはわからない。そんなのお互い様なんじゃないの?」
 言葉に詰まったつぼみを見捨てて、朔夜はさっさと行ってしまった。
 つぼみは、朔夜の気持ちを考えたことなどない。先日、つぼみに怯えた理由もわからなかったぐらいだ。いまの彼女の気持ちなど、わかるはずもなかった。
「やべぇ、八つ当たり……」
 ――それぐらいは、痛いほどわかっていた。


 ちらと斜め前の席にある朔夜の横顔を盗み見る。いつもは編んで両側に垂らしている髪を、今日は暑いのかアップにしている。思わずまじまじとうなじを見詰めている自分に気がついて、つぼみは赤面した。
 ――とにかく、謝らなくては。
 朔夜は子供っぽい怒りを持続させるような少女ではなかった。つぼみを見る目もその素振りも、特につぼみを怖気づかせるような様子ではなかったことは確かだ。しかしこの数日、つぼみは彼女に話しかけることが出来なかった。自分だけがいつまでもこだわっているようなのが、子供染みていて恥かしかったのだ。
 ホームルームの終わりをじりじりと待っていたとき、朔夜が手を挙げた。
「先生、いいですか?」と許可を取って、教壇に上がる。そして先日配ったアンケートを回収し始めた。
 朔夜はどうして委員長なんかしているんだろう。
 つぼみは思う。面倒な仕事だし、他のクラスの連中とも渡り合わなくてはならない。その中で主張を通すことは怖くないのだろうか。たとえ同性であっても、対峙する相手は彼女よりもずっと大きいのだ。
 ふと壇上を見上げて、つぼみは朔夜が微笑んでいることに気がついた。その笑みは、楽しそうだった。


「い、市橋いちはし
 放課後、つぼみは朔夜に声をかけた。呼びなれない名に、緊張で少し声が上ずってしまう。いまから謝ろうというときに、とてもじゃないが戯れに<チビッ子>などとは呼べない。
「うん、なあに?」
 まったく普通の調子で朔夜は振り向いた。お互い自席に座っているので、朔夜は自分の椅子をつぼみの方へと向ける。いかにも話を聞こうという態勢に、つぼみは教室内に自分達しかいないことに気がついた。
「……あ……もしかして、待ってた?」
「ん、なにか話したそうだったから」
 ――見抜かれていた。少なくとも朔夜は、つぼみよりも自分の周りが見えている。
「ごめん、おれ、子供っぽくて」こないだも、とつぼみは呟いた。
「ううん、お互い様だから。ラグビー部でなんかあったの? ……それとも、自分の名前が原因なのかな?」
 つぼみは気まずげに顔を赤らめた。それを話すということは、自分の一番子供っぽいところを曝け出すことになる。しかも、つぼみが普段子供だと揶揄している当の相手に。
「おれ、ちょっと、自分の名前にコンプレックスがあって。おまえは<咲く>って名前だからいいよなあ。おれ、いつまでつぼみでいなきゃいけないんだろう、って思う」部活だって、おれ、いつまでも上達しないかも、って思うし。
 そう言ったつぼみを前に、くっくっと朔夜は笑い出した。
「やだもう、ほんとに八つ当たりじゃないの。私の名前は<咲く>って意味じゃないわよー」
「……え?」つぼみは目を丸くする。
「<欠けた月がもとにもどる>って意味なのよ。つぼみくんとおんなじよ、これから咲くってことよ。花だって、まずつぼみができないと咲かないじゃない?」
 ふふっと微笑んだ朔夜に、つぼみは頬が熱くなるのを感じた。これは、自分の無知を曝け出したことが恥かしいのか、それとも違う意味なのかどっちなんだろう。慌ててつぼみは話の矛先を変えた。
「そ、そういえばチビッ子って、どうして委員長やってんだ?」
「教壇に上がるのが楽しいから」
 はあ? と妙な反応をしたつぼみは、あることに気がついた。――こいつだって、コンプレックスを持ってる。
「……みんなを見下ろせるから?」
 せいかーい、と言って朔夜はにっこりした。そうか、と答えてつぼみは衝動的に立ち上がった。
「じゃあ、これなら?」
 いきなりさっと朔夜を掬い上げ、つぼみは自分の左肩に座らせた。――なにこいつ、軽すぎる。つぼみは驚嘆した。体重は自分の半分にも満たないのではないかと。
 それは短い時間だったが、またも朔夜を怯えさせたのではないかと恐れ、つぼみは慌てて彼女を降ろした。
「わ、悪い」こういう後先考えないところ、ほんとに駄目かもしんない。落ち込みかけたつぼみだが、朔夜は目をきらきらさせて彼を見つめる。
「すっごーい! 視点が全然違う! 背の高い人ってあんなふうに見えるんだね」
 またいつでもやってやるよ、と言いかけたつぼみだが、それもなんだか違う気がして大人しく口を閉じた。
「……やっぱり、小さいのってコンプレックス?」躊躇いがちに問うと、
「そうね、背が低いっていうより、成長が遅れてるって気分。なんだか中学生みたいじゃない? だから男の子にも相手にされないのかなー」
「その眼鏡といつものおさげ、やめてみたら?」
 そう言うと、朔夜はぷっと吹き出した。
「やだ、つぼみくんも眼鏡かけるのやめたら美人になるって幻想持ってるタイプ? なんていうか、外見変えたから惚れられるのってつまんないな。どうせなら、自分の内面を好きになってくれた人のためにおしゃれしたいと思わない?」
 つぼみがふんふんと肯いていると、朔夜は眼鏡に両手をかける。
「それにこうやって」と眼鏡をはずし、「眼鏡はずしたぐらいで美人になったら苦労しないわよ」
 と言った表情がなんだか大人びていて、いつもと違った髪型に新鮮味も感じて、つぼみはどぎまぎしてしまう。
 ――やべぇ、チビッ子にときめいたなんて言えねぇ……

<了>


あとがき
novel

2005 08 31