呆れた逃走

 ざわつく店内。営業の年月だけ薄汚れた庶民的なその店は、ちょうどお昼時の客で賑わっていた。
「あー美味しかった」
 行儀良く手を合わせてごちそうさまをし、少女はピラフとサラダの昼食を終えた。カウンター席の椅子から滑り降り、懐の財布を探る。
 同じ型の硬貨ばかり入っているそれから一枚を抜き出し、ピンと弾いてカウンターに乗せた。くるりと渦を画いたあと、微かな振動をひとつ残して硬貨は動きを止める。
 立ち去ろうとした少女の置いた硬貨を見て、店主はぎょっとしたように目を見張った。
「お客さん! このコインは受け取れませんよ」
 少女はむっとして振り返った。肩まである髪がさらりと揺れる。
「なによ、贋物じゃないわよ」
 店主は困った顔をした。なんなのよ、と少女は低い天井を見上げて溜息をつく。
 そのとき彼女の隣でひとりの青年がすっと立ち上がった。
「親父さん、これで」
 ちゃりん、と音を立てて青年の手から四枚の銅貨がカウンターに落ちる。店主はほっとした顔でそれを受け取った。
 不審そうに見上げる少女と眼が合って、青年はふっと微笑んだ。
「出るよ」
 おもむろに外套を羽織ると、少女の腕をつかんで青年は店の出口へと歩き出した。逆方向に突然引っ張られて、少女は後ろ向きのまま二三歩床を踏んだ。
「ちょっと――お金」
 青年と並んで歩きながらも、少女はカウンターを見遣る。
「いいの、君の分も払ったから」
「え、なに」
 ではさっきの代金は二人分だったのだと思いつつ、少女の混乱には拍車がかかった。
 店を出たところでようやっと手が離され、少女は腰に手を当てて青年を睨んだ。
「どういうつもり? 私は施しを受ける気はないわよ」
 自分が何か非常識な振る舞いをしたのかという憂いを押し隠し、少女は声を張った。精いっぱいすごんでみせたのだが、青年は軽く笑いを洩らしただけだった。
「説明するけど、場所を移さないか?」
「なによ、ここで言えないってわけ? 何かやましいことでも――
 そこでやっと少女は、大通りで言い争っている自分たちが注目を浴びていることに気づいた。


「ほら、膨れっ面するなよ」
 静かな木陰に移った少女に、青年はその辺の店で買ってきた飲み物を差し出した。むくれた少女が可笑しいと言わんばかりの笑みを顔に張りつけている。
 はい、と青年は彼女が店に置いていった硬貨を手渡した。文句を言いかけた彼女の先手を取って、青年は口を開いた。
「家出かお忍びかは知らないけど、いったいどこのお嬢様だ?」
「なっ――
 なんでわかったの、と言いかけて、少女は慌てて口を押さえた。それを見て、よほど可笑しかったのか、青年は本格的に笑い声を上げる。
 少女は気まずそうに眉を顰めて、赤い顔で上目遣いに青年を睨みつけた。
「ああ、ごめん、笑ったりして」
 さすがに悪いと思ったのか、青年は至極真面目な顔になって、軽く膝を曲げた優雅な礼をして見せた。
 木々の隙間から差し込んだ陽が青年の顔を照らす。色も質も繊細そうな髪をしていて、煌く瞳までがぎょくのような水色である。少女は、存在を主張するかのような自分の鉄色の髪との差を思い知らされ、少し気後れを感じた。
「おれはラヴィット。よろしく」
「やだ、うさちゃん」青年の名を聞いて、やっと少女は笑みを見せた。「知ってる? 異界の言葉でうさぎ、って意味なのよそれ」
 本名かと訊く少女に、ラヴィットは肯いてみせる。
「そ、おれの母さんがそう呼んでたよ」彼は懐かしそうに目を細めた。
「私はティア。お母様がそう呼ぶわ」愛称を告げ、気が解れかけたところで本題を思いだして、ティアは表情を固くした。「――それで、説明してくださる?」
 ティアの厳しい顔に苦笑して、ラヴィットは頭を掻いた。
「絹の服、金貨。これだけで充分だよ。庶民の店では金貨じゃ出せるお釣りがないって知ってた?」
 気まずげにティアは身動ぎをする。「……良く知ってるのね」
「そりゃ、下町生まれですから。もうひとつ言ってあげようか。普通のお嬢様は汚くてうるさい店には入らないよ。目立たないようにしようと思ったんだろうけど、逆に目立っちゃったな」
 詰めが甘いと言われて、むっとなったティアは文句をぶちまけた。
「しょうがないじゃない、誰かに相談する暇もなかったし、そもそも相談しようがなかったんだからっ」
「その辺を鑑みるに、どうも家出みたいだな。どうしたんだ?」
「結婚させられそうになったから逃げてきたのよ」


 重い空気を振り払うように、ラヴィットは晴れた顔で立ちあがった。
「服でも買いに行こうか」
 誰の、と尋ねるティアの顔を彼は指差してみせる。
「その豪華な綺羅で界隈をうろつくつもり? 目立ってしょうがない」
 自分が思うより目立っていたのかと、ティアは溜息をついた。
「……お金、適当なの持ってないわよ。貴方に払ってもらいたくもないわ」
「下取りすればいいよ。ショール一枚でお釣りがくる」
 それを聞いてやっと、ティアは微笑んだ。
 二人は木陰から踏み出し、太陽の下に姿を晒した。寄木細工のように大小の店がごちゃごちゃに詰め込まれた通りを抜け、狭い路地の奥に入る。
「どこまで行くの、服屋ならさっきあったじゃない」
「あれは表通りだから。裏には質屋とか闇取引の店があるからね。こういうところなら高価な物も買い取ってくれる店があるはずだけど」どうせなら全部売ってしまった方が身軽になる、と言ってラヴィットは一軒の店の前で足を止めた。
 そこは表通りの店と比べると間口が広かったが、全体的に薄暗くはあった。狭い路地は隅々まで陽が差し込まず、店の正面に光が当たらないことも原因の一つだろう。しかし中に入れば意外とすっきりとして圧迫感も少なく、ティアはほっと息を吐いた。
 すかさず、店の奥から店主が顔を出した。
「下取りで、普段着の服が欲しいんだけどね」
 ラヴィットは店主にティアを示しつつ、慣れたように交渉を始めた。
「ええ、置いてございますよ」髭面の店主は答えながら、ティアの着ている服を値踏みする。「こちらの服と御交換でしたら、上から下まで一式揃えてお釣りをお渡しできます。どれでも好きな品をお選びください」
 だってさ、とラヴィットはティアを振り向いた。
「好きなもの試着して選んでおいで。ここで待ってるから」
 促されて、ティアは服を選びにかかった。待っているという言葉を疑いもせず、ラヴィットの姿が見えない店の奥に進むと逆に楽しみが滲んだ。こちらがどんな服を選んでいるか、彼からは全く見えないからだ。離れても、声だけは良くとおった。
「お客様、素晴らしいブローチを身につけていらっしゃる。それをお売りになる気はございませんか」
「良い品だろう? でも売らないよ、これは騎士団に入団したときの上司からの贈り物でね。売り払ったら怒られてしまう」
 ラヴィットがくつくつと笑う声が聞こえた。


 試着室のカーテンをシャッと引き開け、ティアはラヴィットに姿を見せた。
「ああ、良く似合う」
 ラヴィットは柔らかく微笑んだ。
 山吹色の七分丈のシャツは、ティアの若さと明るさを引き出している。少し開いた襟元は編んだ紐で留めてある。結局、ショールだけは売らずにもとの綺羅を纏ってあった。彼女は恥ずかしそうに、斜めにベルトをクロスさせた臙脂のミニスカートの裾を押さえる。服装に合わせて、足にはこげ茶のブーツを履いていた。
「短いスカート、履くの初めて。変じゃないかな」
「いいや、良い目の保養で」と答えたラヴィットはティアに背中を殴られ、話題を逸らした。「代金貰ったけど、金貨が混じってたから両替しておいたよ」
 ティアの財布に硬貨を入れて紐を締めると、ラヴィットはそれを彼女のベルトにくくり付けた。
 初めて自分で買い物をした高揚感に包まれ、ティアの機嫌はたちまち直る。
「さてお嬢様、このあとはどうなさるおつもりで?」
「そうね、せっかくだから逃亡劇に付き合ってもらうわ」


 一通り露店巡りを終えたあと、二人は喫茶を楽しむことにした。店に入り、ティアに椅子を引いてやりながらラヴィットが尋ねる。
「結婚相手はどんな人なの?」
異国とつくにの身分の高い人よ。レンとかいう名前だったと思う。幸い、小父さんじゃないみたいだけど」
 こうして話している間もティアは不安で堪らないというのに、ラヴィットはからからと笑い出した。
「なによ、他人事だと思って」
「いや、ごめん、そういう意味じゃなくて。君、いいとこのお嬢様で、しかも政略結婚だろ? 貿易国の豪族が、なんで他国の貴族の名前も知らないの。異界の言葉を知ってるぐらい教養があるのにさ」
「……知らないのは私じゃないわよ」
 機嫌を損ねたらしく、むすっとしながらティアは説明した。彼女の父親はティアが――ちょうどこんなふうに――逃げ出すのを危惧して、ぎりぎりまで政略結婚のことは秘密にしていたらしい。しかし折良く、ティアが懇意にしているメイドがそれを聞きつけて知らせてくれたのだ。ただし、そのメイドが詳細までは知らなかったという話である。
「今日明日にでも会いに来るって言うんだもの、とるものもとりあえず抜け出すのが精いっぱいだったわ」
 ティアは長い睫毛の眼を伏せて、紅茶を啜った。一瞬静寂が落ちたが、彼女は気を取り直したように笑んで顔を上げた。
「ねえ、一緒に逃げてくれる?」
「……おれで良ければ、どこまでも付き合うよ」ラヴィットは優しく答える。
「じゃあ行こう、私、夕陽が沈むのを見たいの、丘に上りに行こう」
 不自然なほど明るくはしゃいで、ティアはラヴィットの腕をとった。


 高い丘に上ると、そこには涼風と彩雲が流れていた。
 薄暗い背景の中、夕陽を受けて振り向き、ティアは声をあげた。
「涼しい、ねえここまで上ってきて、港がよく見えるわ」
 ラヴィットはティアの隣まで歩を進める。石を避けるように地面を均して、彼は脱いだ上着をそこに敷いた。そして座るようにとティアを促し、自分も隣へと腰を下ろした。
 ティアは食い入るように、海と港と船と、そして街並みを見ていた。夕陽の橙色の光が、きらきらとティアに降り注いでいる。
 夕陽の最後の一呼吸まで、瞳に潤いを湛えながらも、ティアは眼を逸らさなかった。
「帰ろうか」
 静かにラヴィットがそう言って、ティアは弾かれたように彼の顔を見る。
「最初から帰るつもりだったんだろう。一国の姫が自分の責務を放り出しちゃいけない」
「ラヴィット……」
 すがるような眼で、知ってたの、とティアは呟く。
「ティア、君のような紅の瞳がこの国でどれだけ珍しいか知ってる? リティルア・スヴェルラント、君の名を聞けば予想はつく」確証はなかったから勘だけどね、とラヴィットは答えた。
「私、なんにも知らないのね……」ティアは諦めたように息を吐いた。
「貿易で成り立っているようなこんな小さな国、下手をするとすぐに潰れてしまうわ。大国との繋ぎをつくるこのチャンス、逃すわけにはいかないの」
 ぼろぼろと大きな涙がティアの頬を伝った。うんと肯いて、ラヴィットは優しくティアを抱きしめる。
「ごめんなさい、あなたを馬鹿にしたわけじゃないわ、嫌な思いをさせたかったわけじゃない。ただ、普通の女の子みたいに、一日を過ごしてみたかっただけなの」
 星の瞬き始めた空の下で、ラヴィットは子どもみたいに泣きじゃくるティアの髪をずっと撫でていた。


 翌朝、ティアの部屋の扉で控えめなノックが響いた。婚約者が来たと、メイドがティアを呼びに来たのだ。メイドは浮かない顔をしていた。ティアが乗り気でないのを知っていたからである。
 心配するなと笑みをよこして、ティアは広間へ足を向けた。薄水色のドレスがさらさらと衣擦れの音を立てる。ティアは本音が顔に出ないように、よそ行きの顔をつくった。
 広間では大きな窓から差し込んだ光が格子状の影を作っていた。
 ティアが来たことに気づいて、濃紫こむらさきの髪をした長身の若者がすっと前に出た。
「リティルア姫、お目にかかれて光栄です」
 きつめの顔立ちをした彼が、ふっと微笑むと、途端に柔らかい表情になる。それに安心して、ティアは自然に微笑み返した。
「お初にお目にかかります。貴方が私の婚約者でいらっしゃいますか?」
 それを聞いて、青年は慌てたように表情を崩した。
「いえ、とんでもないことでございます。私はただの従者ですので」
 従者と言いつつも、青年はなかなかの風格を備えている。従者でこれなら本人はさぞかし、とティアは思った。私じゃ釣り合わないかもしれないわ。
「ヴィレン様、十八とは聞いておりましたが、なかなか若々しい姫でいらっしゃいますよ」
「チェリオ、私と一つしか違わないくせに、年寄りくさいことを言うな」
 振り向いて声をかけた青年に、笑いを含んだ声が答えた。声の主は片膝をついてティアの手の甲に口付けすると、目線を上げてにやりと笑んだ。
「レイリアス皇国のラヴィリエント・レイリアスです。お目にかかるのを楽しみにしておりました」
 ティアは眼を丸くする。
 ――そこにいたのは、水色の瞳のラヴィットだった。
 途端にぷつりとティアの堪忍袋の緒が切れた。なにしろ緊張しっぱなしで精神的に限界だったのだ。
「……大嘘ぶっこきやがったわね?」
「姫君、お言葉が乱れておりますよ」
 澄ました顔でラヴィットは言い放つ。
――最っ低! あんたとなんか誰が結婚するもんですか!」
 激昂するティアに、おやおやとラヴィットは苦笑した。
「ヴィレン様、どのようなお戯れをなさったのですか?」
 憂い顔のチェリオに、ラヴィットは笑いながら説明してやる。
「嘘はついてないだろう?」と涼しい顔のラヴィットに、
「まあ……嘘はついておりませんが……全面的に貴方がお悪いのでは」
 きっぱりと言い放つチェリオに、怒りを忘れてティアは向き直った。
「嘘ではありませんの?」言葉遣いを忘れないところはさすがである。
「ええ、ヴィレン様は王の養子でして、王位継承権は持っておられないのです。もともとは下町生まれの下町育ちです」
「騎士団の上司と仰るのは……」
「そこまでお話しになりましたか」とチェリオは破顔した。
「ヴィレン様は王位継承者に全てを委ね、表向き政治からは手を引いて騎士団の一員となっております。僭越ながら、私が総長を務めさせていただいておりますが」
 横で話を聞いていたラヴィットが、くすくすと笑いを洩らした。
「チェリオ、そんな堅苦しいしゃべり方は疲れるだろう」
「誰の所為で苦労していると思っているんですか。まったく狸なんだから。貴方に傾倒していたころがあったとは、我ながら信じられません」
 自分の忠臣でもあり上司でもある男に叱られて、ラヴィットは肩をすくめる。
「貴方と結婚したら苦労しそうよね……」
 溜息とともに呟き、ティアは自分の未来を憂えた。

<了>


あとがき
novel

2005 08 12