望国のRexレックス

「で、ここはどうなるの?」
 放課後の教室、白鹿はっかの対面に座りつつ筆記用具を握り締め、紅葉くれはは難問と格闘していた。
 机の上に広げているのは数学の実力試験の答案用紙である。八十点以下の生徒は間違えた問題を赤で直して、再提出しなければならないのだ。
 逆さまになった文字を器用に認識して、白鹿は紅葉の間違えた箇所を訂正していく。
 紅葉は、もう肩まで伸びた髪を手櫛ですきながら、丸い文字を用紙に書き付けた。
 さすがは級長、と紅葉は感嘆する。二年に進級したが、持ち上がりのこのクラスは相変わらず白鹿が級長を務めている。もちろん級長と成績には何の関連もないが、白鹿の成績がいいのは事実である。
「できたー!」
 紅葉は出来上がった答案を両手で掲げ、にんまりと笑った。
「おー、できたか!」
 教室の後ろのドアからタイミングよく和志が現れ、紅葉の席まで走りよってきた。
 よしよしよくやった、と和志は紅葉の頭を撫で回す。
 紅葉は軽く眉をひそめた。最近、クラスの連中は紅葉になれなれしい。さすがに半年以上も教室内に女子がいてなおかつ、今年の春より共学になったとあれば慣れてしまうのも当然なのかもしれない。
 最初は女の子耐性がなかった所為で遠巻きにしていたくせに、いまや乙女の頭を撫で繰り回すとはふてえ野郎たちだ。
 とはいえ、白鹿だけは一度も、紅葉に触れようとしたことはない。
 鬱陶しい! と和志の手をびしり叩き落して、紅葉は和志と会話する白鹿の顔をこっそり見つめた。
 涼しい顔をしているが、まだ女の子に慣れてないのかな、と紅葉はそんなことを思った。


 窓の外は灰色の雲が広がり、雨に加えて風も強いようだった。
 雨の日は外に出ることが出来ないので、校舎内で遊び倒すことになっている。
 わずか半年で紅葉は男子生徒という生き物がいかに暇つぶしに長けているかを思い知った。もとい、くだらない遊びを考え出してそれに熱中できることに、である。
 カードゲームもやったし、条件付き凍り鬼も下敷きで卓球もやった。今日は初心に戻ってかくれんぼである。
 放課後のため、いくつかの教室は電気が消えていて廊下は薄暗い。じめっとした梅雨の空気は憂鬱さを連れてくるようで、なんとなく嫌いだ。
 紅葉は例によって電気の消えている理科室にそっと忍び込んだ。暗幕がびっちり引かれていてより一層暗さを増している。これなら鬼が探しに来ても見つかりにくいかな、と思い、紅葉は教卓の下に潜り込んだ。
 しかしそこには先客がいたのだ。
 一瞬目が光って、紅葉は驚きに息を呑んだが、すぐに相手の正体に気がついた。
「白鹿」
「……なんで人が隠れているところに来るんだ」
「偶然だよ、偶然」
 そんなに邪険にしなくてもいいじゃん、と紅葉はむくれる。そのとき、白鹿がシィッと低い声で沈黙を促した。
 廊下に鬼がいるようだ。耳を澄ますとみしりと足音が近づいて、理科室に踏み入った。暗黙のルールとして、電気の消えている教室では明かりをつけないことになっている。この暗さでは、姿さえ見られなければやり過ごせる可能性が高い。
「どこにいんだよ、もうー」
 鬼役の和志がぶつくさ言いながら教室内を歩き回る。
 居場所がばれれば二人一緒に見つかってしまうため、紅葉と白鹿は狭い教卓下にぎゅうぎゅうと身体を押し込め息を殺していた。
 白鹿とこんな至近距離で一緒になったことはない。普段なら慣れない女子にうろたえるだろう白鹿の様子をじっくりと観察してやるところだが、紅葉にそんな余裕などなかった。
 なにしろ距離が近すぎる。
 白鹿の息遣いがすぐ傍で聞こえる。白鹿の様子を窺うどころか、鬼の様子すら紅葉の脳内には入ってこなかった。
 ただ、押し付けられた腕の熱さだけ。それだけしかわからなかった。
 目眩がしそうだ。
 ――嫌だ。
 紅葉は、ぎゅうっと目をつぶった。
 バタンとドアが閉まって、紅葉は我に返った。鬼はもういない。どうやら、準備室だけ確認して行ってしまったようだった。
 紅葉は軽く息を吐いたが、激しく鳴る心臓の所為でうまく呼吸が出来なかった。
 そんな紅葉の内面はつゆ知らず、白鹿は一人教卓の下から這い出した。
「二人分のスペースはちょっと無理だな。俺は別の隠れ場所探してくる」
 そう言って、白鹿はおもむろに立ち上がった。紅葉は何も言えないまま、薄暗い中で白鹿の背中を見送る。
 ――避けられた、そう思って喉が詰まった。
 さっきまで嫌だ嫌だと思っていたくせに、なんだかすごく寂しくて、紅葉は暗闇の中でひとり膝を抱えた。


 今日は紅葉が日直のため、みんなは先に外で遊んでいる。
 日直日誌はすでに書き終えて職員室に提出した。紅葉は階下のゴミ捨て場から教室に戻るところだった。
 空のゴミ箱を抱え上げ、紅葉は二階の渡り廊下を歩く。
 ふと外を見ると、中庭で級友たちが走り回っていた。今日は鬼ごっこかな、缶蹴りかな。そう思っていると、紅葉の見ている先で、よそ見をしていた白鹿が下級生の女の子とぶつかった。
 転んでしまった女生徒に、白鹿は謝っているらしい。自然な動作で手を差し出して、その子を助け起こした。そうしてあとは平静と遊びに興じている。
 ――平気、なんだ。
 紅葉は知らず、しばし息を止めていた。
 差し出す手にはわずかなためらいもなかった。白鹿は平気なのだ。彼も、皆と同様、女子に慣れてしまっている。
 それならばどうして、どうして紅葉とだけ距離があるのだろう。
 頑なに近寄るまいとするのだろう。
 涙が、ぼろっとこぼれた。それを拭いもせず、紅葉は教室へと駆け戻った。
 紅葉は黙々と帰り支度を済ませた。教室の窓を閉め、カーテンを引く。
 今日は黙って帰ってしまおうかな、と思った。
「紅葉?」
 廊下のあたりから突然、低い声がかけられた。紅葉は背中でびくりと反応する。
「まだ来ないから様子を見に来た。……どうした?」
 足音が、近づいてくる。振り向くと、白鹿が心配そうな憂い顔で立っていた。
 すぐ近くにいたわけではない。やっぱり、一定の距離を保っていた。白鹿はいつもそうだ。他の者が紅葉のテリトリーにずかずかと入り込んでも、白鹿だけはその物理的な距離を侵すことはなかった。
「どうして?」
「え」
 思わず問うた紅葉に、白鹿は驚き顔しか返せない。紅葉の頬を涙がぼろぼろと伝った。
「白鹿は、なんで私だけ避けるの? 女の子が苦手なわけじゃないんでしょう、私、何かした?」
「おまえ、自覚ないのか?」
「なに、が?」
 紅葉は目を見張った。本当に何か迷惑なことをしたんだろうか。しかし見上げた白鹿は困ったような優しい目で、怒っている様子はない。
「おまえが、男を怖がってるからだよ」
 え、と今度こそ本当に、紅葉の思考は停止した。
「俺たちのためだなんて建前で、理事はほんとはおまえのために、この学校におまえを呼んだんじゃないのか。女子校育ちの箱入り娘が、男に慣れてるわけないんだよ。女に免疫のない俺たちなら、おまえだって怖くなかったろう」でもな、と白鹿は諭すように言う。「俺たちの方が、先に慣れてしまったんだ。だから紅葉、俺たちが近寄りすぎると、嫌な気分になったんじゃないのか。こないだだって、かくれんぼのとき、おまえすごく緊張してただろう」
 遅れて働きだした脳でやっと理解して、紅葉はぱっと顔を赤らめた。
 初めて会った日、「なんとかしてやる」と言ったあの日から、白鹿はずっと紅葉を見守ってきたのだ。
「さすが級長……」
 目が行き届きすぎる。それぐらいでなければ、あの暴走力も甚だしい連中をまとめていけないのかもしれない。
「でも、でもね、白鹿だけは嫌じゃなかったよ。嫌だけど、嫌だったけどでも、白鹿に頭撫でてほしかったもん」
 親に成績を褒めてもらいたい子供みたいだなあ、と思って、紅葉はその馬鹿馬鹿しさに恥ずかしくなった。白鹿はと見れば、掌を顔面に当てて呆れたように下を向いている。
「……紅葉、もしかしておまえ、俺が好きなのか」
「そうなの?」
「俺に訊くな」
「どうして?」
「期待するから」
 じゃあ先に行ってる、と白鹿は背を向けてしまった。
 その背中を見送りながら紅葉は、じっくりこの気持ちを見極めてみようと思っていた。

<了>


novel

2007 05 09