望国ぼうこくReginaレジーナ

 それは、一本の電話から始まった。
紅葉くれは、お祖父ちゃんから電話よ」
 部屋のドアをノックして、母は紅葉に電話の子機を手渡した。礼を言って子機を受け取り、紅葉はドアを閉める。母が階段を降りる、とんとんとん、という音が遠ざかる。
――もしもし、お祖父ちゃん、なに?」
 なに、と訊いたのは、祖父は用件のあるときぐらいしか電話を使わないからだ。世間話をしたいときは会いに来るか、紅葉を呼ぶ。
「よお、紅葉、高校変わりたくないか?」
――はあ?」
 変わる、と言われても、とっくに梅雨は明けて、期末テストも終わるころである。つまりは、やっと学校に慣れてきたところだ。突然そんな提案をされても面食らうしかない。
「おまえ、女子校はつまらんと言っておったじゃないか。お嬢さん学校だから、退屈しておるんだろう。どうだ、わしが来学期から、絶対退屈せん高校生活を提供してやるぞ」
 祖父の弾んだ声に、紅葉の心の天秤がぐらりと傾いた。
「……それ、ほんとに? 退屈しない?」
「絶対の百乗」
 この口癖が出るときは、祖父に相当の自信があるときである。紅葉は早くも、うずうずしてきた。
「いいかもしんない。どんな学校?」
「わしが理事をしておる高校があるだろう。それじゃ!」
「……お祖父ちゃん……それって」
 ――男子校じゃあありませんか。


「よしっ、いざ出陣!」
 校門より斜め上、校舎の屋根を見上げて紅葉は気合を入れた。
 長袖のシャツにこげ茶色のベストを着込んでいるため少し暑いといえば暑いが、どうせ校舎の中は空調設備がフル稼働しているはずである。なにせ、金はかかっているのだ。
「お嬢さま学校からお坊ちゃん学校へって……コントかよ」
 ぼそりとセルフ突っ込みを入れて、紅葉は校舎へ――もっと正確には職員室に向かって歩き出した。大きな眼鏡がぴかりと日光を反射する。もちろん、伊達である。顔が目立たなくていいかと思ったのだ。いつもは気合を入れてストレートになるようブローするくせっ毛も、今日は好き勝手にはねさせておいた。男子校ならこんなもんかと思ったのだ。我ながらいい加減である。
「失礼しまーす……」
 からからと――といいつつ、滑りが良いこのドアは音も立てない――ドアを開けて、紅葉は職員室を覗き込むように半身を入れた。
「まぁっ! 待ってたのよ!」
 背の高い女性が現れて紅葉の手を握り、ぶんぶんと上下に振ったかと思うと、次は机の傍までずるずると紅葉を引っ張っていった。忙しない女性である。
「私は高田たかだ志津子しずこ、現国教師。あなたの担任になります。よろしくね」
 にっこりと笑うと、彼女はじっと紅葉を観察した。
「理事のお孫さんねぇ……あんまり似てないわねぇ。あっでも目元がちょっと似てるかな。紅葉ちゃんかぁ……可愛い名前ーいいなぁー。うん、結構うまく化けたわねぇ。女顔でとりあえず通るかな、まあバレてもいいけどね。ま、せいぜい楽しみましょ、あっはっはっはー」
 そう言って彼女は大声で笑い出した。女らしいのか豪快なのか、よくわからない人である。
 祖父は、紅葉のことは教員には話しておいたし、性別がばれたところで構わないと言った。ただ、目立ちたくないのならあまり女らしい恰好はしないほうがいい、とも言われたので、とりあえずズボンで来てみた紅葉である。
「よろしくお願いします、高田先生」
 ぺこりと頭を下げると、だめよー、と彼女にたしなめられた。
「志津子先生、って呼んでくれなきゃ。私だって可愛い教え子が欲しいのよ。あの子たち、ちっとも甘えたりしてくれないんだもの。せめて紅葉ちゃんぐらい、お姉さんみたいに慕ってくれなきゃやだー」
「やだあ、って……」
 あの子たち、というのは生徒のことだろう。高校男児にそれを求めるのは、酷というものである。子どもみたいな人だ、と紅葉は呆れかえった。
 同時に、紅葉はくすくすと笑い出していた。本当は緊張気味だったのだが、それがすっかりとれたのだ。
「よしよし、笑顔がいちばん。では参りましょうか、紅葉調査員」
「はーい、志津子先生」
 後ろで束ねた髪を翻した志津子先生に、紅葉は良い子の返事をした。
 実は、紅葉は祖父からある役目を仰せつかってきたのだ。この学校は来春から共学になる予定である。それに先だって、制服の着用義務も今学期から廃止された。そのことに関する生徒の動揺や意見があったら探ってきてほしいと言われたのだ。生徒同士なら気軽に話せるからである。さらに、女子がこの学校に通う上で不便に思うことがあったら知らせてほしい、と。たとえば女性教員をもっと増やしてほしい、男女別クラスにしてほしい、などである。
 ――確かに退屈はしないだろうなあ……
 志津子先生の言うとおり、できるだけ楽しむことに決めた紅葉である。


「えーと、三科みしな紅葉くれはです。よろしく」
 教室の前の教壇に立って、紅葉は挨拶をした。この位置にいると教室内がよく見渡せる。さすがに、男子ばかりがずらっと並ぶと圧巻である。ただでさえ小柄な自分が、さらに縮んでしまったような気がする。
 紅葉はまたも緊張して、ごくりと息を呑んだ。その肩を、志津子先生が優しくぽんぽんと叩いてくれる。
「君たち、この子は私のお気に入りなのでいじめないように! じゃ、紅葉ちゃんには級長の横、空けといたから」
「……は、よろしくお願いします……」
 促されて、前から三番目、廊下側の席につくと、隣の男子がちらっとこちらを見た。四角いフレームの眼鏡の奥に、静かな瞳がある。彼が級長であるらしい。
十島としま白鹿はっかだ。わからないことがあったら訊いて」
 低い声は思ったよりも無愛想ではなさそうで、紅葉はほっとした。
 時計の針が休み時間を指すと、早速、紅葉の机の周りにクラスメイトが群がった。とはいっても壁際の席にそれほど押しかけられるはずもなく、まあ四、五人ほどである。さすがに高校に入っての編入生は珍しいようだ。目立たないようにしようと思っても、しばらくは無理である。
「おまえ、ちっこいなー。何センチ?」
 まずは言われると思った質問からである。女子の中でももちろん高いほうではないので、男子の中ではさらに目立つらしい。
「ええと、百五十四……かな?」
「ひょえー、ちっせぇー」
「おれと二十センチも違うじゃん」
「その眼鏡気になってるんだよね、ちょっと取ってみ」
「わぁっ、ちょっと待っ」
 ささやかな抵抗は無駄だったようだ。いちおうの砦はあっさりと崩されてしまう。
「……あんま男子高生らしい顔してねえなー。女の子みたいとか言われね?」
 軽く眉根を寄せて紅葉を見つめる男子に、彼女は直接には答えず、あはははーと愛想笑いをしておいた。
和志かずし、そういうことはするなよ。彼が困ってる」
 そう言って、白鹿は紅葉の眼鏡を取り上げた男子に、スピードを殺した拳を叩き込んだ。
 ――な、いま、なにが起こった?
 目を丸くした紅葉に、周りの者は彼女が荒事に慣れていないことに気づいたらしい。
「あれ、こういうの珍しい? 前の学校ではなかった?」
「なかった……ねぇ……」
 呆然としたまま紅葉は呟いた。世に名高いお嬢さま学校で、こんなことが日常的にまかり通っていたら大事である。
 ――うーん、私、やっていけるんだろうか。
 そうは思ったが、戸惑う紅葉に、周りの目が突然優しくなったような気がした。それはびっくりするよねとか、なにかあったら守ってあげるねとか、周囲からかけられる言葉が妙な方向に流れている。
「悪い、眼鏡返す――あれ、これ、伊達じゃん。どうしたの?」
 和志が謝って、素直に眼鏡を返した。伊達だとばれたときの言い訳を考えていなかった紅葉は、慌てて返答する。
「え、ええっとそれは、あの、緊張しないように……」
 上目遣いになった紅葉に向けて、周りの目がきらりと光った――ような気がした。
「そうか、怖い思いをさせちゃったね!」
「んなもん、しなくていいように早くクラスに溶け込ませてやっからな!」
 紅葉は目を白黒させた。そうまで言われてはこの先眼鏡がかけられない。
 ――っていうか、なにが起こりましたか?


「ああ、それ、生贄の子羊ってやつだ」
「羊ぃ? ――って」
 クラスメイトの態度が解せない紅葉がこっそり尋ねてみると、白鹿からは妙な答えが返ってきた。
「男子校の娯楽だな。クラスの妹分が決まりましたよ、ってこと」
「いもうと……弟でなく……?」
「弟分はパシリな。妹分は可愛がられ役、つまりアイドルってこと。もともとこの学校には女子がいないからな、そういう役を勝手につくっているんだ。――ご愁傷さま」
 複雑な気分になって、紅葉は苦笑いをした。彼女にとっては荒事に巻き込まれないだけ楽な展開だが、普通の男子にとっては嫌な役目なんだろうと想像してみたからである。
「どうしても嫌ならなんとかしてやるから、言いにこい」
 と言う白鹿自身がすでに、紅葉を甘やかしているようである。
 この調子ならなんとかやっていけそうだ。とはいえ、「目立たない」という目標は見事、達成不可能となった。


 嵐は突然やってきた。もたらしたのは和志である。
「ちょっ、ちょっと大ニュース!」
 教室に駆け込むなり、和志は大声を上げた。
「おまえら知ってるか? この学校に女の子がいるらしいぞ!」
 な、なにぃーっ、とあたりは一時、騒然となる。もちろん、いちばん驚いたのは、なにを隠そう紅葉その人である。
 白鹿はひとり、涼しい顔をしていた。
「落ち着け、おまえら。和志、それソースは確かか? 根も葉もない噂話には躍らされるなよ」
 冷静に見えてその実、どうやら白鹿まで興味を覚えたらしい。
「間違いねって。だって先生がしゃべってんの聞いちゃったからな。どうも、共学に先だって、女子のテスト生が密かに通っているらしい」
 おお、とまたも教室内は沸き立った。そうして、あれよあれよという間に、その女子をつきとめようという企画が持ち上がってしまったのである。
 紅葉は、頭が痛くなってきた。祖父が孫娘を通わせても安心と踏んだとおり、この学校には素行の悪いような連中はいない。お坊ちゃん学校であるだけあって、わりあいみんなお行儀がいいのだ。しかし、妙な好奇心と団結力はしっかりと持ち合わせているらしい。
 そんなわけで、この日から、このクラスの妙な行動がちらほら見られるようになった。屋外授業をしているクラスがあったら窓に鈴なりになって観察してみたり、三年生の校舎にまで忍んでみたり、食堂では怪しげにきょろきょろしてみたり。目をつけた生徒のあとをこっそりつけて、所属クラスをチェックしてみたりもする。
「あんたら……実はアホだろう……」
 なんとなく付き合わされてしまった紅葉は呆れて溜息をついた。
「そう言うな。こういう娯楽は貴重なんだ」白鹿はにやりと笑ってみせる。
 男子の考えることは、まったくもってよくわからない。なにより、腹が立ってきた。ここにいる紅葉に目をつけないとは、いったいどういう了見なのか。自分は、そこまで女に見えないとでもいうのだろうか。
 そもそも、彼らがチェックを入れる生徒はそろって、小柄で細身でおとなしく優しく、見目も良い生徒である。彼らが女子に抱いているイメージが推して測れようというものだ。
 昼休み、今日は教室で昼食をとっているクラスメイトに、紅葉は言ってやった。
「捜したって、無駄だと思うよ」
「紅葉ぁ、なんでさー」みんなが口々にぶつくさ言う。
「見つからないってことは、目立たないようにしてんでしょ。だいたい、しとやかなお嬢さまみたいな子がこんなとこ来るわけないじゃん。ここ、男子校だよ? みんな目ぇ覚ましなよ。ほんっと、女の子に夢見すぎ」
「なにカリカリしてんだ、紅葉」
「してない」
 白鹿を睨みつけると、彼は「ははあ」とわかったふうに声を洩らした。
「紅葉、おまえ妬いてるんだろう。最近みんなが女生徒捜しにかまけて、相手してやってないのが面白くないんだろう」
「うっ」
 紅葉は小さくうめいた。図星である。みんなが、そのくせ紅葉に気づかないのが輪をかけて腹立たしいのだ。
「う、うるさいなあ。だいたい、もし見つけたところでどうしようもないでしょ。みんな、どうせ女の子に免疫ないに決まってるんだから」
「そういう自分は免疫があるのか?」
「あんたらよりは確実にあるね」
 それだけは自信を持って言い切れる。なにしろ女子校出身なのである。喧嘩腰になった紅葉は、引っ込みがつかない状況に陥ったことを悟った。
 それに反応して、和志までもが口喧嘩に割り込んでくる。
「おまえが女の子と付き合ったことあるなんて、思えないけどなあ。そんな面して、ほんとに男かね」
 紅葉の怒りは頂点に達した。
「……男だなんて、言った覚えないけど」
「えっ」
「アッタマきた。帰る!!」
 絶句したクラスメイトを後目に、帰り支度を済ませると、紅葉はバシンと戸を閉めて教室を後にした。
 馬鹿野郎ども。知るもんか。


 次の日、紅葉は気合を入れなおして登校した。戦闘体制はバッチリである。
「志津子先生、おはようございまーすっ」
「あら、紅葉ちゃん! 誰かと思ったわ、見違えたわねえ。今日はそれで行くの?」
「ええ、お祖父ちゃんの魂胆がわかりましたので。クラスのみんなに思い知らせてやろうと思います」と言って、紅葉は不敵に微笑んだ。
 あら、と志津子先生は苦笑する。
「先生、知ってたんでしょう。もう、人が悪いんだから」
「まあね、でも、男の子のフリするのも楽しかったでしょう」
「そうですね、では一足お先に」
 ぺこりと頭を下げると、紅葉は教室へ向かった。
「おはようっ」
 教室の戸を開けると、みんなが一斉に紅葉に注目するのがわかった。
 今日の紅葉は女の子の恰好をしているのである。はねる髪の毛先をしっかり直して、左サイドは一部編んで髪飾りをつけてある。いつもよりも少し、身体の丸みを帯びたラインがわかるような服を選んだ。極めつけはミニのプリーツスカートである。本日の紅葉は燃えているのだ。
 ――ぜっったいに、男か女かわからないなんて言わせないんだから!
 最初に、恐る恐る、和志が寄ってきた。
「あの、君、誰かに用事かな……?」
 いつもよりもずいぶんとおとなしい対応である。紅葉は呆れ返ってしまった。
「うわー、ひっどいなぁ。自分のクラスメイトの顔もわかんないってわけ?」
 それを聞いて、白鹿が変なものを呑み込んだような顔をする。
「……もしやと思うが……紅葉か……?」
「そうよ?」
 紅葉はにこっと笑って、首を傾げてみせる。教室に入ると、波が引くようにクラスメイトたちが後退あとじさった。
 紅葉は涼しい顔で自分の席についたが、周りの者は呆気にとられたような顔で彼女を見るばかりである。
「あれ、白鹿、いつもより席が遠くない?」
 隣の席の白鹿に問いかけると、彼は慌てて否定した。
「いやっ、そんなことは……うわあっ!」
「……私は珍獣か……?」
 腕をつかんだだけなのにこの反応とは。こころなしか、白鹿の顔が赤くなっている。紅葉は妙な快感を覚えてしまった。もっとからかってやりたい、という。
「あんたたち、揃いも揃って女の子に免疫なさすぎ! こんなことで、来年女子が入ったらどうする気だったの?」
 ――つまりはそういうことなのである。
 妹分とはいえ、ままごとの役みたいなものである。つまり、いままでの紅葉は女の子の代用品だったのだ。代用は代用であって、本物とは程遠い。彼らは代用の女の子でなければ相手にできなかったのである。
 祖父はそれを悟って、紅葉を送り込んだに違いない。なんだかんだ言って、生徒に女の子を慣れさせようと、つまりはそれだけのことだったのである。
「今日から覚悟なさい!」
 紅葉は声高らかに言い切った。
 ――なにはともあれ、退屈しない日々が過ごせそうである。

<了>


あとがき
novel

2005 01 12