碧落4

 少女はくらい道を歩いていた。
 周囲が見えないのに、確かに、道を歩いているとわかる。
 ここがただの暗闇ではない――もしくは現実でさえない――とわかるのは、自分の姿ははっきり見えるからだ。
 ふと気付くと、前方に扉があった。瑠璃色の、上方が円いかたちの扉だ。
 少し重いそれをぐっと押し開けると、中は赤や紫のぼんやりとした光が明滅する空間だった。その向こうに、黒いどっしりとした一揃いの机と椅子が存在感を放っている。
 それに目を取られていると、いつの間にかそこは、執務室のような部屋になっていた。
 椅子には、男が座っていた。翠色の眼をした、不思議な雰囲気の青年だ。
――ここは碧落へきらく、世界の果て」
 どこか涼やかな声で男は言った。ここは、願いを叶える場所だと。
 願いを叶えたい者が導かれる場所なのだと。
 それを聞いた少女は微笑んだ。
「これって、神様がくれたやり直しのチャンスなんじゃない?」
 ――あのねえ、とこらえきれない期待を声に乗せる。
「私、主人公になりたいの」
 それを願ったのは、彼女で二人目だった。


――つまり、物語の中に生まれ変わりたいと?」
 カタリ、とクインシオスは師の机にソーサーを置いた。
 ルガはカップに指を引っ掛け、紅茶を啜りながら椅子の上で横向きになる。相変わらず行儀の悪い男だった。
「どうも流行はやってるみたいなんだよな。いわゆるその、物語転生ってやつが」
「流行っている? ……転生がですか? どこの世界の流行りですか」
 どこの世界の、というのは比喩表現ではない。ここはいろんな世界に通じている場所だ。世界は、空だの夢だの霧だの路地裏だの、ちょっとしたところから別の世界に繋がっているものなのだ。
「転生が、というか、生まれ変わりを主軸とした物語が、だな。別の自分になりたい、というのはよくある願望じゃないか」
――そうなのですね」
 クインシオスは首を傾げつつも頷いた。彼は戦の国で生まれたので、人生がどうこう以前に生き残ることしか考えなかった。いまはルガのところに来ることができたが、その状況をただそのまま受け入れている。
「それで、対価として何をお取りになったのですか」
 弟子は師に尋ねる。何かを変えると世界は歪む。その分相手から何かを切り取ってバランスを保つのが、まがかたルガの流儀だった。
――何も」
――何も?」
 目を見開いたクインシオスに、ルガはくつくつと低く笑った。
「死した魂からは何も奪うことはできないよ。奪わない代わりに――魂の価値に見合うだけしか、与えてやることはできないけどな」


 ――一人目の少女の話だ。
 少女には前世の記憶があった。
 それを思い出したのは十ばかりの頃だ。
 彼女は病気の母親と暮らしていたが、母親が亡くなった後、孤児院へ行くことになった。その一年後、彼女を探していたという男が現れたのだ。男は貴族だった。身分差に怖気づいて逃げた昔の恋人を探していたと言い、少女を引き取った。つまり、男は少女の父親だった。
 ――自分は貴族の落としだねだったのか、という事実を知った途端、彼女の中にある記憶の奔流が巻き起こった。それがつまり、前世の記憶だ。
 彼女の前世は別の世界の人間だった。その記憶によって、この世界は自分が好んでいた恋愛ゲームの世界だと知ったのだ。
 彼女の世界では、その手の物語は「乙女ゲーム転生」と呼ばれていた。それらを好んでいた彼女はその展開をすんなりと受け入れた。そして期待に胸をときめかせた。
 自分は貴族だ。十五になれば、良家の子女が行く王立学校に通うことになる。そこで数々の出会いが待ち受けているはずだ。
 彼女はヒロインなのだから。
 ――そのはずなのに。
 入学式の初日から、彼女には何のイベントも起こらなかった。
 壇上の生徒会長と目が合って微笑まれたような気がしたという前振りも、門前で転んだことがきっかけで王子に手を差し出してもらうことも、図書室の奥の棚で学年一位の秀才と知り合うことも、事故の際に騎士団長の息子にかばってもらう出来事も。
 何も――何ひとつ、起こらなかった。
「どうしてぇ……?」
 それどころか、彼女が目覚めるはずの聖魔法の片鱗さえ、かけらも浮かばなかった。


 ――二人目の少女の話だ。
 貴族の娘である彼女は幼いころ、隣の領主の息子と引き合わされた。
 政略によって縁を結ぶという約束、つまりは婚約をその少年と交わすことになった。この少年の面立ち、どこかで見たことがある――いや、覚えがあるのはその名前だろうか。
 そう思ったとき、彼女の頭の中に洪水のように情報がなだれ込んできた。知っている。自分はこの世界を、この少年を、この先自分に起こることを知っている。
 そうして彼女は、自分が読んでいた少女漫画の世界に転生したことを知った。彼女の前世は、別の世界の人間だったのだ。
 彼女は、物語の世界に転生する話を好んで読んでいた。その中には、悪役令嬢物や婚約破棄物というジャンルがあって、そこでは「主人公」が「脇役」に、「脇役」が「主人公」になるという面白さがあった。わかりやすく言うと、脇役に生まれ変わる物語なのだ。
 そして彼女の役どころは「婚約破棄される令嬢」だった。
 定番ではあるが爽快感のあるジャンルだ。彼女は前世の記憶に感謝した。これで、突然の婚約破棄によるダメージを減らすことができる。得られない愛を乞う前に諦めることができるし、浮気の兆候に注意して証拠をつかむこともできる。未練を全く見せず、愛していなかったのはこちらも同じだと、相手の鼻先に突き付けてやることができるのだ。
 そして彼女が十六になったころには、婚約者とは非常によそよそしい関係になっていた。
 折に触れたプレゼントを欠かすことはなかったし、月に一度のお茶会もある。特に虐げられたことはなかったが、彼の熱は冷めていたしこちらの熱も冷めていた。
 上滑りする会話が義務的に流れていくだけだった。
 ――そんなある日、婚約者は慎重な声で切り出した。
「君とは、婚約解消を考えている」
 ――そら来た、と彼女は思った。
 彼が最近、他のご令嬢と仲を深めていることは知っている。まだ、会話が増え、微笑みを見せている程度のことではあったが。だから明確な証拠というのはなかったが、彼の気持ちがそちらに傾いていることはわかっていた。
「僕は、政略結婚には愛が必要だとは考えていない。初めに愛がなくとも、互いを尊重し助け合えるパートナーであれば、気持ちを深めていくことは可能だ。――しかし、君と信頼関係が築けるとは思えない」
 ――あれ、と彼女は思った。確かに婚約を無しにする話だが、思っていた流れとは違う。
――君が、僕を信用していないからだ」
 彼は、彼女と歩み寄る努力をした。彼女のためのプレゼントは自分で選んだし、花は持参した。共通の話題がないためそこから話を広げようと思ったが、彼女は乗ってこなかった。実務的なことにしか興味がないのかと思い、領地の話を振ってみたが、それすらもたいした興味は見せなかった。
 そして彼は気付いた。彼女は、彼に興味がない。彼と仲を深めることに興味がない。彼と領地を治めていくことに興味がない。彼を信頼する気がない。
 ――これでは、やっていくことができない。
「え……だって……」
 彼女は言い訳しようとしたが、起こってもいないことを糾弾することは不可能だった。
 そうして彼女は、自分自身が原因で、婚約を解消された。


 ――そして三人目の少女は。


――一人目は、愛好しているゲームの世界とやらに生まれ変わりたかったと」
「そのゲームの舞台の世界に生まれ変わりたい、恋愛をするために好きなキャラクターたちと出会いたい。――そういうことでいいかと訊くとそうだと言ったよ」
 ルガはにやりと笑った。
「それで、どうなさったのですか」
 どうせストレートに応えたのではないだろうと、クインシオスは先を促した。都合よく物語の中に閉じ込めるなんてことはできないので、どうやったのかに興味があった。
「実はその世界って存在してたんだよね。その世界で死んで彼女の世界に生まれ変わった人が、前世の記憶からゲームとやらの物語を作った。登場人物は知っている人を使ったが、内容はもちろん作り話だ。もしかするとその人自身が体験したかった夢物語なのかもしれないな」
 世界を越える際に順当に時間が流れているとは限らない。過去に転生してしまうこともあるのだ。
「僕はちゃんとチャンスはやった。それを活かさなかったのは彼女の勝手だろ」
 彼女の敗因は、発生するはずのイベントに頼ろうとしたことだ。ただ受け身でイベントをなぞろうとせず、自分の努力で相手と仲を深めるならば、どうにかなるチャンスは存在していた。
 ――なるほど、とクインシオスは息を吐いた。
 砂時計を確認して、新しい茶を注ぐ。次は、香りのいいハーブティーだった。
――二人目は、婚約破棄がしたかった……のですか?」
「婚約破棄によるカタルシスを感じたかった……ってやつかな。気持ちよく引導を叩きつける物語が多いからさ。自分が読んで面白かった、婚約破棄物の主人公になるってことでいいかなと確認はした」
 引導は渡すものだが、叩きつけると言いたいニュアンスはわかる。
「それで、お次はどうなさったと」
「明確に物語の世界ってのは存在していなかったけどさ、物語転生の婚約破棄物って作中の世界はそんなに特徴的じゃないんだよね。だから似た様な世界を探して、彼女の記憶の中の固有名詞を上書きしたんだ。そうすれば、彼女の主観では物語の中に生まれ変わったことになるだろ」
 転生物語Aの主人公ではなく、転生物語Aの中の物語Bの脇役に生まれ変わったと錯覚させた。それでこそ、彼女が望む「婚約破棄物の主人公」だ。
「努力しなかったのは彼女の落ち度だろ」
 愛を乞おうと追いかける、もしくは嫌われまいと過剰に従順であれば、婚約者は逃げ出して他の女に走るか、増長して彼女をないがしろにした。そうであれば、相手を糾弾することができたのに。恋愛感情を諦めてバランスの良いパートナーとしての関係を探れば、上手くやっていく道もあったはずだ。相手は、ほどほどの距離感を求めている男だったのだから。
 ――すべては、彼女の努力不足だ。
「それで……対価は本当に、受け取っていないと?」
「いないよ。ただ、僕と会った記憶は消させてもらった。――上手くいかないことを僕のせいにされたら、たまったもんじゃないもんな」
 師は笑って茶を飲んだ。どうせ、どうなるのかがわかっていたのだろう。
「でも不思議だよねえ。自分が死んだことは理解しているのに、死んだ後の世界や家族については願わないんだから」
――そういえば、もう一人いるとおっしゃっていませんでしたか?」
「そうそう、三人目は物語とかじゃないけど、優しい婚約者が欲しいって願いだった」
 三人目の少女は、家族に恵まれなかった。家族に期待するのが怖かったので、来世は家族以外の人に期待した。愛される自信がなかったので、優しい人を、とだけ願った。
 彼女はただ、無償の愛は期待しなかった。前世の記憶があったので、努力をしなければ得られないものだと思っていた。だから、努力して家族との仲を良好にしたし、婚約者とも良好だった。
 ただし――婚約者が、別の女を好きにならなければ。
 婚約者は優しい人だったので、それを正直に少女に打ち明けた。彼女は努力しなければと思い、彼と話し合った。
 結局のところ、彼は好きな女と結ばれるつもりはなかった。彼は片思いだったし、少女との婚約は政略だった。彼は少女を大切にし、パートナーになる努力をすると言った。ただ、自分の恋心だけはいまは別の人にあるのだと。
 少女はそれを許した。世の中にはどうしようもないことがあると知っている。彼が努力していて誠実な人であることも知っているからと。
 ――そして、少し時間はかかったが、結婚した後はなんの憂いもなくなった。
「そして少女は幸せに暮らしましたとさ」
 ルガはくすりと笑ってカップを持ち上げた。
 辺りにはふわりと、ハーブの匂いが漂っている。

<了>


novel

2022 08 07