碧落3

 男は夢の中に迷い込んでいた。
 暗闇がどこまでも続き、地面を踏んでいるはずの足許さえ、底知れぬ闇に落ちていきそうだった。男はごくりと唾を飲み込み、どこへと知れぬ先に歩を進めた。
 右も左も無い闇の中で、なぜか男は自分が歩いているのが道の上だということがわかっていた。このまま歩き続ければ、目指している先にたどり着くのだということも。
 そうこうしているうちに、男は扉の前に立っていた。瑠璃色の、上方が丸いかたちの扉だった。その扉を押し開けるとき、闇に吸いこまれそうな錯覚を味わったが、実際にはそこは色とりどりの灯りがぼんやりと点いたり消えたりする、不思議な空間――いや、部屋だった。
 一揃いの黒い机と椅子が、目の前に存在感を放っている。
 しかし椅子の上には誰も座っておらず、そこに居た人物は机の横に立っていた。
――ここは碧落へきらく、世界の果て」
「じゃあ、ここが碧落、そしてお前が願いを叶えてくれるんだな!」
 目の前の青年の言葉に、勢い込むように男は言った。
 黒髪の青年――少年と言ってもいいかもしれない――は、慌てることはないと言うように苦笑してみせ、頷いた。
「ここは間違いなく碧落です。しかし僕は、ここの主ではありません。僕の師は外出しております」
 青年が話すごとに、男の目は暗く絶望に堕ちてゆく。最後の頼みとばかりにたどり着いた先で、願いを叶えてもらえないと知ればそれも当然だった。
 しかし青年は、男を拒絶しはしなかった。
「僕の名はクインシオス、未熟なこの身ではありますが、師より責任を持って留守を預かっております。もちろん、師に代わって仕事を果たすことも許されておりますゆえ、ご安心くださいますよう――ただし、あなたが僕に頼む気があるのならば、ですが」
 男は、藁をつかむようにその言葉にすがりついた。なにしろ、ここで追い出されてしまえば、再びこの地に来ることがかなうかどうかもわからない。碧落は、必要とする者の前に道が開かれると言われているとはいえ、偶然に頼らねばたどり着かぬ秘所なのだ。
「頼む、願いを叶えてくれるのならば、主だろうとその代理だろうと構わない」
 そうは言ったが、男は少しだけ不安そうに青年の顔を見た。――正確には、その左眼を。
 それと気付いて青年は左の義眼に触れるように、頬に手を当てた。
――ああ、この眼が気になりますか、大丈夫です、仕事に支障はありません。この眼は、師より賜ったものです。師と同じ能力を持ちながら、世界を見通す眼を持っていなかった僕を、師が憐れんで呉れたのですよ」
 その眼は、光を映すことはないが、別の世界を透かし見ることができるのだという。彼らは、空間を渡るために、運命を取り換えるために、そのような眼が必要なのだ。
 とにかく、男にとっては支障がなければ、それで良かった。
「私は事業で、莫大な損失を出してしまった。なにが悪かったかはわかっているんだ、時間を巻き戻し、失敗を取り消したい」
 なんでも叶えてくれる碧落だとはいえ、「物事を取り消したい」などという願いが受け入れられるかどうか、男は不安だった。だから、青年が是の返事をしたときはひどく安堵したのだ。
「わかりました。では代償を――


「それで、何を代価に取ったんだい」
 師のルガは、クインシオスの話を聞きながら興味深げに先を促した。
――記憶を」
「記憶?」
 クインシオスの言葉に、ルガは片眉を上げる。
「はい、改変する前の、失敗したという過去の記憶を」
「ふうん……なるほどね」
 おかしそうに呟いて、ルガはクインシオスがここに来たときから変わらない行儀の悪さで、椅子に座ったまま机の上にどっかと足を乗せた。
「それは、また来るね」
「来ますか」
「そりゃ来るだろうねえ、味を占めたから」
 一見、ルガがクインシオスを諭すようなやり取りだったが、本当はお互いわかりきったことを確認しているだけだった。
 ――そうして男は、その後も何度もやってきたのだ。
 普通の人なら一生に一度の運を使ってここに来るはずが、その男はここと繋がりやすい体質だったのかそれともそれだけここを必要としているのか、何度も碧落へやってきた。そうして、そのことを疑問にも思っていないようだった。
 叶えたい願いはいつも同じ。――過ちを取り消したい。
 ほとんどは商売絡みのことだったが、そのうちに、未練を残した恋人と別れなかったことにしたい、大恥をかいたあのことをなかったことにしたい、と男は遡って自分の過去を改変し始めた。
 何を改変したのかという記憶はなくなっても、碧落で過去を変えたという記憶は残っている。男はここに来ればすべて良いようになると、欲のたがが外れてしまったかのようだった。
 ――そうして過去を変え続けた結果、男の人生に汚点はなくなった。


「その人はいまも来るのかい?」
 ルガの友人であるエルフがそう訊いた。久々に来たその里遠りおんという青年に、茶を振る舞いながらクインシオスは静かに答える。
――いえ、その男は自死しました」
「……自死」呟いた里遠に、
「そうそう、あっさり逝っちまったよ」天を見上げてルガが答える。「あいつの認識では、自分は一度も挫折したことがなく一度も絶望の淵に墜ちたことがなかった。だからその次にやってきた苦境に、心が耐えられなくて折れちまったんだよ。なにしろ、危機を乗り越える方法も耐え忍ぶ心もあいつは知らなかったんだからな」
 それでおしまいさ、とルガは指をはじくようにして右掌を開いた。
 あとは、茶器の触れ合う音だけが静寂の上に乗っている。

<了>


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2013 02 27