――ここは碧落、世界の果て。
気づけば自分のベッドの上だった。窓から差し込む光の眩しさに、オルカは目を細める。
仰向いたまま、上方で軽く腕を交差させて影をつくる。
そこでふと、何か妙なことに気がついた。確かに昨日までの自分とどこかが違う。
夢の中の言葉が頭を巡る。
――おまえの願い、聞き届けよう。
「そうか、碧落に行ったんだ……」
夢の世界でふと迷子になって、迷い込むことがあるという。碧落に行けば、理の紛い方、ルガに望みを叶えてもらえる。
頭がぼんやりして、どうも記憶がはっきりとしない。
「おれの望みは何だったんだろう……」
わからなくてもいい。それは叶ったのだから。
体は至って健康で、金にも困っていない。友達はいるし、巻き込まれているトラブルもない。
幸せなはずだ。
それなのに、時折酷い焦燥に襲われる。
梯子の上から、街の喧騒に足を浸したとき。夕暮れの雲を、風が呑み込んだとき。朧な月に、花嵐が吹くとき。
希求した何かが手を擦り抜けてどこかへ行ってしまう。あとには焦燥だけが残る。
やらなくちゃ。でも何を?
オルカは拳で軽く壁を叩いた。乾いた音がする。
「――叶えたはずだろう?」
望みを叶えたはずなのに、どうしてこんなに餓えているんだろう。
――代わりに何を、失くした?
オルカは、ふらりと通りに出た。
白い壁が奥へと続く。店の看板が風に軋む。人の流れが止まることはない。
ざわざわ。ざわざわ。
オルカは、ほっと一息をついた。
煩いほど惑わされずに済む。
そのとき、後ろからぐいと肩をつかまれた。その乱暴な調子とは裏腹の、穏やかな声が流れる。
「君、碧落に行ったね?」
オルカが振り向くと、痩躯の若者が立っていた。背は高い方ではないが、強い存在感を放っている。目深に被ったフードが濃い影を落とし、口元だけが覗いている。
その口から、また言葉が滑り出た。
「君の望みは、代価に見合うものだったのかい?」
「……わからない」
相手はするりとフードを脱いだ。目にかかる淡い紫の前髪が、ぱさりと揺れた。
彼の額には赤い御印。運命の導き手、導者の証。理の流れを感じ、それを司る者の証。
頭のどこかで、ああやっぱり、という声がした。彼は役目を果たしに来たのだ。オルカに理の捩れを感じたから。
青年はどこまでも静かだった。濃い紫の瞳を細め、すうと片腕を前に伸ばす。
「両腕が紛い物だね」
その声は、オルカの中に染み渡った。そしてオルカは思い出したのだ。
碧落で求めたのは、事故で失くした両の腕。
「――代わりに、絵の才能を失くした、んだおれは」
「……それだけじゃないね。絵を描くこと自体、できないようになっている」
腕を選ぶか、描くを選ぶか。
ああ、どちらか片方だけで何の意味があるだろう。
「どちらを選ぶんだい?」
しかし容赦なく青年は選択を迫る。
オルカの肚は決まった。
「――腕は、いらない」
夕暮れが闇へと変わる時間、青年は空間のずれを見つけ、そこへ滑り込んだ。
現実と二重写しになった闇路の先に、小さな家が立っている。
上方が円い瑠璃色の扉を開けると、そこには仄かな灯り。足元がぼんやり光る。ときに水色、ときに黄緑、赤紫とそちこちで光が広がったり消えたりしている。
青年は奥へと声をかけた。
「ルガ」
散らかった机の上に、どっかと乗せた靴の裏を見せて少年が答えた。
「ここは碧落、世界の果て……」そこで首だけを起こしてこちらをちらりと見る。「なんだ、里遠じゃんか」
ルガはいちど机の上に乗ると、ぴょんと乗り越えてこちらに立った。その際、前髪が乱れて彼の額の印が見えた。里遠のそれと同じ形をしている。
「おれの仕事を増やさないでほしいな。君だって導者なんだから」
たしなめるように言う里遠だが、その口調は怒ってはいない。
「同じじゃないよ。里遠は導き手、僕は紛い方、だろ。表と裏、光と影みたいなもんじゃん。気にしない、気にしない」
ふざけたような口調で、明るくルガは言う。里遠もそれほど気にしてはいない。それがルガの、夢魔の本性だから。
「仕事、ね。また選ばせてやったの? どっちをとるかわかってんのにさ」
嫌味な口調ではなく、どちらかといえばにっこりとルガは言った。
里遠は曖昧に笑った。いつも言われる言葉である。
理の流れを変えても、それが正しい流れなら歪みなど生じない。歪んだときは、本人の無意識がそれを拒絶しているときである。
「代価を払えるんなら、僕は本人の望むとおりにしてやるよ」
そう言うと、ルガは翡翠の目に宿る光を和らげた。
「ここは<世界の果て>だけど、<長く白い雲がたなびく地>と呼ぶ人もいる」
幾年か経って、里遠は評判の画家の噂を耳にした。
画家が両腕を失くして、初めて描いたのは鯱の絵だという。昏い縁から抜け出て光に舞う、鯱。
その絵を描くのに一年を費やした。
彼は描きつづける。絵筆をその口にくわえて。
<了>
2003 11 09