授業終了のベルが鳴った。いつもより早めに授業が終わったので、幸は食堂でその音を聞いていた。
いつも一緒に昼食をとっている友達は今日はいない。必修の授業が入っていない日なので、皆休みがちなのだ。
食券を買おうと並びつつ、幸は空席を目で探す。
後ろからとんとん、と軽く肩を叩かれた。
振り返ると、にっこり口の端を上げた青年が立っていた。常葉である。
「やぁ、サチ! 席とってんだけど、一緒にお昼どうよ」
「はぁ、じゃあ……」
なんとなく気乗りのしない風の返事を返す。
人好きのする可愛い笑みも、子犬のように懐っこいのも、幸にとっては戸惑う要因となるばかりである。常葉のことは嫌いではない、嫌いではないが少し、鬱陶しい。
「ところでサチはきつねうどん派、きつねそば派?」
「きつねうどん、かな」
「おお、やっぱり! きつねはうどんがいいよねぇ。じゃあ今日はそれ食おうっと」
「……またか」
幸はこっそりと溜息をついた。
常葉は毎度この調子である。なんたる優柔不断。
周りの友達から何か言われたりはしないのだろうか。しかし、本当に深刻な内容について問われたことはないので、幸も放っているのが現状だ。
呆れているというのも少しある。
だいたい、常葉は幸のタイプではない。幸はもっとはっきりしていて頼れる人が好きなのだ。
ただ、いいかげんそうに見えて頭は良いというところを少し見直してはいた。
幸が常葉と知り合ったのは二週間ばかり前の話になる。
「やばい、トキちゃん待たせてるんだった!」
焦りつつ駆ける階段口に、足元が滑り、どしんとぶつかったのだった。
しばし呆けて手摺にしがみつく幸の目の前を、ファイルから散らばったプリントがひらひらと舞った。
ぶつかった相手を見上げる。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて謝る幸に、よろめきもしなかったその青年は、にっこり笑い返した。そのまま屈むと、プリントを拾い集めてゆく。
「秋中さんでしょう」
「はい?」
どうやら同じ授業を選択していたらしい。出席の際、最初に呼ばれる幸の名を記憶していたのだろう。
青年がファイルと共に小脇に抱えていたノートに、アルファベットの綴りが見える。相手の名は、と目を凝らすと「SATORU.T」と読めた。
何だ、結局聞かなきゃわかんないじゃない。
幸が名を尋ねると、相手は常葉と名乗った。
「はい」とプリントを渡して、「面白いでしょう、この授業」
「どうも、ええと、難しい……です」
テーマは面白いけれど、とごにょごにょと濁して、幸は苦笑した。
「何だ、じゃあ教えてあげるよ」
「えっ」
どうしてそういう展開になるんだろう。
幸は戸惑ったが、この無邪気な笑顔を前にしては断れない。
やっと地味な学校生活にも華が、とちらり考えたことも否定しない。そのときはまだ、常葉の優柔不断っぷりを知らなかったものだから。
なんとなくその場の展開でふたり並んで歩き、幸は自動販売機の前で立ち止まった。
「お礼にジュースだけどおごりますよ。どれがいいですか?」
チャリン、チャリンと投入口に飲み込まれた小銭が響く。
ふむ、と腕を組んで常葉はこう言ったのだ。
「赤と青、どっちが好き?」
「は? え、あ、赤」
「じゃあ、これ」
ピッ。常葉の長い腕が伸びてボタンを押す。
ごとん、とコーヒーの赤い缶が落ちた。
幸にはどうも、人の申し出や頼みごとを断れないところがある。
常葉に呼び捨てにされているのも、
「サチって呼んでいい?」
「……うん」
という短い会話の末に為されている。
そんなこんなが降り積もって、常葉にうろちょろくっつかれる羽目となった。構わないで、だなんて言える幸ではないのだ。
ただ、幸いにも常葉は幸がひとりのときにしか声をかけてはこない。
いつも一緒にいる人を別に見つけられれば良いのだけれど。
あれこれ考えながら館を繋ぐ廊下を歩いていると、朱鷺子の姿が目に入った。
「トキちゃん」と軽く呼びとめる。
朱鷺子は、ぐったり疲れきった表情をしていた。
「わ、憔悴してるって感じ」と幸は感嘆してみせる。
「ちくしょう、昼休みまで拘束しやがってぇ」
と軽く喚いてみせた朱鷺子は、これから昼食をとるようだ。
朱鷺子は授業の一環で、グループ研究をしている。小人数の上、仲良しグループでもないのでなかなか大変な思いをしているらしい。
確か六人のグループだと朱鷺子は言っていた。意見が対立したり、誰かひとり抜けただけでも相当作業は難航するだろう。研究だけでなく、発表の準備もしなければならないというのに。
「だいたい、合格基準が厳しいのよ。先生がスムーズにオッケー出してくれたら、こんなに苦しまなくてすむのにっ」
「難儀だねぇ」部外者の幸には実感は涌かないので、間抜けた声で感想を述べるほかない。
「いや、もう大詰めに入ったからね。うちはリーダーさまさま、って感じ。美岐本くんがいなきゃもっと行き詰まってるわよ」
リーダーは美岐本くんという人らしい。
「……へぇ、どういう人?」
「なんだなんだ、興味あるのか」にやりと笑んで、朱鷺子は述べ始めた。「えっとね、成績は優秀。品行方正……は違うかも。決断力があるっていうか、見極めが巧いのね。リーダーシップもあるから、グループ内が分裂しないで助かってるわ」
揃えた指を口元にあてつつ、「惚れるぞ」と最後に付け加える。幸が興味を持っているとみて、からかっているのだ。
もう、とむくれた幸は逆襲に出た。
「唐沢くんに言っちゃおうかなぁ」
唐沢くんとは朱鷺子の思い人である。変なことを吹き込まれては堪らない朱鷺子は、
「待った。よし、美岐本くんを紹介してあげようではないか」
「え?」
……意外な展開。
機会は早々にやってきた。
「飲み会に来ない?」
とにこにこ顔で朱鷺子が訊く。
グループ研究が終了した暁に、お疲れさま会と称した飲み会を催すというのである。
しかし、六人で、というのはやはり寂しい。結局、他のグループメンバーや友達を呼び集めた単なる飲み会となるらしい。
それに幸も参加しないかと朱鷺子は誘っているのだ。
「もちろん美岐本くんも来るわよ」
半眼でちらりと幸を見て、囁くように告げるその様子は明らかに面白がっている。
……別に目当てにするほど相手のこと知らないんだけど。
幸は少々戸惑った。
朱鷺子から話の種にいくつかエピソードを聞かせてもらっているぐらいで、相手の顔も見たことはない。興味を持ったことは事実だが、期待してしまうと相手に会うのが少し怖い。
脳裏を、なぜか常葉の顔が過ぎった。
それを振り払うように幸はぶんぶんと頭を振る。
「トキちゃん、行く!」
飲み会の人数は、ざっと十五人ぐらいだった。
幸は朱鷺子の背中に隠れるようにして、店に入った。座敷の部屋である。テーブルはふたつに分けられていて、入り口に近いほうに着く。
ちらりと奥のテーブルを見やると、見知った顔があった。
常葉である。グラスを片手に、頬を紅潮させながら隣の人と談笑している。常葉も誰かに誘われたのだろう。
どきっとして幸は、しばらく見つめていた。微笑ましい光景のはずなのに、なぜだか胸がちくちくする。
ばかみたい。
……とられちゃったような気分になるなんて。
例えてみれば、懐いた子犬が他の人にもしっぽを振っているのを知ったときの心境か。ずいぶんな例えだが、他に形容できないので仕様がない。
幸は我侭な自分に気づいて、羞恥に頬を染めた。そして、グラスのカクテルをぐいっと流し込んだ。
場も盛り上がったころ、朱鷺子が顔を寄せてそっと耳打ちをする。
「美岐本くんに紹介しようか?」
「いいよ、そんな気分じゃないし」
どこか浮かない顔の幸に、朱鷺子は首を傾げる。
そのとき、突然人の腕が触れ、幸は驚いて軽く声を上げた。後ろから肩に腕が回される。
「さぁちっ」
「と、常葉くん」
酒が入っている所為か、ずいぶんなスキンシップだ。しかし、不思議と嫌ではなかった。
「いやぁ、来てくれて嬉しいよ、サチ。君島に呼ばれたのか」
その様子を、朱鷺子は呆れたように見ている。
「なんだ、美岐本くんと知り合いだったの」
「え、みき、美岐本くん?」
「そう、美岐本常葉」
……何だって?
「……常葉って、名字じゃなかったの?」
「言った覚えないよ、おれ」
確かに、言われた覚えはない。じゃあ、あのサトルと書かれたノートは、と考えて幸は気づいた。きっと、誰かに借りたものだったのだろう。
普通に考えれば、そんな単純な勘違いをするはずはないのだが。
「あ」と幸は口を押さえた。
普通、名を教えるときには名字を名乗るものだ。
そうではなかったから間違えたのだ。
「まったく、常葉くんは。だいたい、私が聞いた美岐本くん像と全然違うじゃない」と幸はむくれてみせた。
決断力のある人だって聞いたのに、優柔不断だなんて。
珍しく、常葉は答えに詰まった。そろり、と窺うように舌に言葉を乗せる。
「それは……サチの好みを知りたいと思って」
「なんで?」
常葉は――まるっきりわかっていない、とでも言いたげな顔になる。
溜息をついた常葉は、耳まで朱に染めた。
「それ、言わなきゃダメか?」
<了>
2003 10 23