真昼の月

 唐沢からさわ弥月みつきは食えない男だ。
 以前、私は彼のことを闇月くんと陰で呼んでいたが、彼に対するイメージが変わってしまったので今はそう呼んでいない。
 彼は人より少し多くのことが見えている。そして、他の人より圧倒的に言葉が足りない。だから、数々の誤解を生んでしまう。でも当の本人はどこ吹く風で気にも留めない。
 他人に興味がないのだ。
 闇夜の月だなんてとんでもない。むしろ真昼の月だ。彼の本心はうっすらとしてとらえどころがない。
 やっかいな男だ。
 でも一番やっかいなのは、そんな人を好きになってしまった私だと思う。


 記憶の中の唐沢くんは、いつも色付きの眼鏡をかけていた。
 だから私は、彼の素顔をはっきりと見たことがない。見てみたい、と思ったことも一度や二度ではないけど、でもそんなの見られなくったってどうでもいい。私は、唐沢くんを見た目で好きになったわけじゃない。背だって一七〇そこそこで決して高くもないけど、それでもやっぱり唐沢くんがいい。
 そして、劇的な瞬間はある日突然やってきた。
 そろそろ夏休みも明けようかというその日、突然美岐本みきもとくんから召集がかかり、彼の家に集合することになったのだ。お祭り好きの美岐本くんは、今度はなにを考えているのやら。まあただの花火大会だの、飲み会だの、そういったことだろう。
 暇だから行ってもいいよ、とそっけないメールを美岐本くんには返したが、内心私はわくわくしていた。なにしろ大学生の夏休みは長い。もう二ヶ月近く、唐沢くんには会っていないのだ。彼と美岐本くんは小学校からの友人らしく、とても仲がいいのできっと唐沢くんも来ることだろう。
「で、今日はどうしたの?」
 美岐本くん宅の玄関で靴を脱ぎながら、私は今日の会合の目的を尋ねた。
弥月みつきの快気祝い」
 え? と私の声は、わずかながら裏返ったと思う。具合が悪かったとか、入院したとかだろうか。そんなこと、全然知らなかった。慌てて奥の部屋に入った私は、安堵の溜息と驚愕の吐息を同時にもらすことになる。
 あぐらをかいたままゆっくりこっちに向き直ったその顔は、いつもの眼鏡をかけていなかった。
「え、あれ、どうしたの?」目的語がなくても充分伝わったらしく、
「手術した」唐沢くんは簡潔に答えた。
「弥月が一番乗りで、君島きみじまが二番乗りな。人数増えることになったから、二人で買出し行ってきて。おれ、家空けられないし。缶チューハイとかつまみとかね。おれ、アイスも食いたい」
 後ろから追いついて涼しい顔で言い放った我侭男に、私は噛み付いた。
「靴を脱ぐ前に言ってよ!」
 とにかく、今すぐに動けるのは私と唐沢くんだけらしく、私たちは近くのコンビニまで買出しにでかけることにする。唐沢くんはしっかり、金、と言いながら美岐本くんから軍資金をせしめている。まあ唐沢くんの快気祝いなんだから、本人が出すのは本末転倒だし。


「目、治る病気だったんだ」
 詮索されるのは嫌がるかな、と思ったけど、気になったので訊いてみた。
「おれの場合、片目だったからな。視力が偏らないように待ってた」
 左右の視力が違いすぎると、それはそれで不便らしい。だから、視力のバランスが取れるまで待って、手術をしたということだそうだ。しばらくは点眼薬もかかせないし、検診にも行かないといけないらしい。肝心の、度が入った眼鏡は、あと一ヶ月ほどして視力が安定してから作るのだと聞いた。
 念願の唐沢くんのご尊顔が拝めて、もはや私は平静ではいられない。実は、二人きりになる機会はあまりないのだ。唐沢くんの瞳は、その口調の悪さからは想像もできないほど澄み切っていた。
 唐沢くんの横顔を盗み見ることに気をとられていた私は、小さな橋に差し掛かった辺りで、部活帰りの高校生の自転車集団に巻き込まれた。どっち側に避けたらいいかわからなくておろおろしていると、
「ぼけっとするな」と唐沢くんが腕を引っ張ってくれた。
 指の力が、熱が、私の腕に伝わってくる。私は思わず、すごい勢いでその手を振りほどいた。
 一瞬だけ、唐沢くんの目のかたちが円くなる。
「ご、ごめん」
 慌てて謝ると、微かに頷いて、また唐沢くんは前を向いて歩き出した。
 その彼の斜め後ろ一歩のところを付いて歩きながら、私は逸る胸を落ち着かせようと躍起になっていた。とんだ不意打ちだ。そういうことをしないでほしい。思わず期待してしまうから。
 唐沢くんのことを好きになって、もう三年も経つのに、私はいまだ思いを告げられずにいる。私は唐沢くんを尊敬しているのだ。だから、彼の邪魔をしたくはない。希望なんて欠片ほども持ってはいないから、傍にいられるならそのためにこの気持ちは押し隠していたい。
 だから、私の心を揺さぶらないでほしいだけ。


 しばらくして、唐沢くんは眼鏡くんになった。
 いままでと同じような違うようなその様子に、もはや私は彼から目を逸らすことができない。表情の見えない唐沢くんも好きだったけど、その澄んだ目を見せる唐沢くんも好きだ。いままでは彼との付き合いに少し距離を置いていた他の女子たちも、他の人と変わりないとみれば仲良くなってしまうかもしれない。考えすぎだということはわかっている。唐沢くんはたぶん、色恋沙汰に興味のない人だということもわかっている。
 でも不安で、不安で仕方がなかった。こんなに苦しいなら、好きにならなければよかったのに、と思うぐらいに。私だけがどんどん好きになっていくのを止められないのに、彼はきっと、私のことなどなんとも思ってはいない。
 誰もいない講義室で、私は机に突っ伏して、盛大な溜息をついた。このまま泣いてしまおうか、なんて思った。そうすれば、少しはすっきりするかもしれない。
「キミジマ、二限はサボりか?」
 静寂に突然唐沢くんの声が響いて、私は文字通り飛び上がりそうなほど驚いた。なんでこんなところに、と思いつつ、やっとの思いで返事を返す。
「そ、そう。唐沢くんは?」
「おれは二限はもともとない」
 うん、実は知っている。唐沢くんはつかつかとこちらに近づいてきた。私は、眼鏡の黒いフレームを見上げて、くらくらしそうになった。
「いまねえ、私、落ち込んでいるの」
「そうか」
 唐沢くんは、ポケットから苺ミルク味の飴を取り出して、私に寄こした。これは、唐沢くん流のなぐさめ方だ。
「好きな人がいるの」ぽつりと私はそう言った。
 唐沢くんは返事をしなかったけど、二人以外誰もいないせいか、気分がめいっているせいか、私の言葉は滑り出して自分でも止めようがなかった。こういうところで自制が利かないのは私の悪いくせだ。
「好きなんだけど言えないの。言ったら迷惑かなあって思ったらどうしても言えなくて、その人は女の子に興味ないみたいだし、たぶん私のこともどうでもいいと思う。私はその人のことが好きで、本当に好きで、すごく尊敬してるから困らせたくないし邪魔になりたくない。好きなだけでいいって思ってたけど、それだけじゃ駄目みたい。すごくつらくて、もう好きでいるのをやめたいぐらい」
 私は鞄を取って席を立った。
「その人って、唐沢くんのことだよ。ごめんね」
 謝罪は本人にそんな話をしてしまったことに対してだ。それと、好きになってしまったこと。言葉足らずだけど、唐沢くんならその意を汲んでくれると思う。
 でもさすがに、本人の顔を見ることはできなかった。後ろを振り向かずに、私は講義室をあとにした。


 勢いで言ってしまったはいいが、そのあとのことを考えていなかったとはとんだ愚か者だ。
 これからだって、美岐本くんとかさっちゃんとか、グループでの付き合いはある。唐沢くんだけに会わないというわけにはいかないのだ。でもまあ、何人かでいれば唐沢くん以外の人としゃべっていればいいし、それ以外は会う機会を避けていればいいか。きっと、唐沢くんはいい具合に私を放っておいてくれるだろう。
 頼りなげな結論が出たところで、受けていた講義もちょうど終了した。全然集中できなかったなあと思いながら、急いでノート類を鞄に放り込む。
 実は、唐沢くんも同じ講義を受けているのだ。私はできるだけ後ろの席を取って、講義が終わったら彼に会う前に逃げ出すつもりだった。しかし、講義室の真ん中からちょっと後ろ寄りに座っていた唐沢くんが振り向いて、ばちっと目が合ってしまった。彼はこちらを向いたままゆっくりと鞄を手に取った。私は、蛇に睨まれた蛙のように動けない。いつだって、唐沢くんは私の視線をあっさりと奪ってしまえる。
 さっさと逃げればよかった、ということに気が付いたのは、彼が近づいて、私の腕をつかんだときだ。まるで、逃がしはしない、とでも言うかのように。
「な、なに?」私の口から飛び出したのは、ひどく動揺した声だった。
「返事」
 そんなの要らない! と叫びたかった。いつものとおり、涼しい顔で流してくれればいいのに、なんでこんなときに限ってこんなに律儀なのか。やっぱり私はこの人のことは読めない。
 そのまま、しばらく無言の時間が過ぎた。講義室から人が出て行くのを待っているらしい。誰もいなくなることに関しては私も賛成なので、黙って待っていた。足が震えて力が入らない。
 そうして他の人がみんな出て行ってしまい、ことんと静寂が落ちた。
「キミジマ」
 私の名前を呼ぶ声にどきどきしたけれど、それ以上を聞きたくなくて、私は思わず掌で耳を覆った。
 でも唐沢くんはその両腕をつかんで耳から外してしまう。
「おまえは、おれのこと嫌いなのかと思ってたけど」
「そ、それは、唐沢くんの方なんじゃないの?」
 そう、私が一番恐れていたのはそれだった。
 いくら好きだと言っても、おまえが嫌いだ、なんて返事しか返ってこなかったら立ち直れない。その原因は高校生のころに遡るのだが、私はいまでもそれをしつこく覚えている。
「だって私、変な女だと思われるようなことしかしてないよ。最初のころはほんとに嫌ってたし、八つ当たりで嫌いだって言ったし、傘に入れてもらったらとばっちりで熱出させて、それから怒鳴りつけた。同じ大学に入ったら入ったで、そんなに仲良かったわけでもないのに何食わぬ顔で友達面してるみたいなとこあるし、それから」
「もう、うるさい、おまえ」
 多くを言わさず、唐沢くんはいきなり、私を抱き締めた。
「え」
 頭が真っ白になった。どきどきでおかしくなりそう。なぜだか泣きそうになった。
「おれは、面白かったけど」と言って唐沢くんはくすりと笑った。「おれに向かって怒鳴る女なんて、キミジマだけだったし」
「そ、それ、が、返事?」なにを言ってるのか自分でもわからなくなった。
 でも唐沢くんからの返答はなくて、私を抱き締める腕も緩まなかった。

<了>


novel

2007 09 28