その人は、闇月くんといった。
もちろん、本名じゃあない。誰が言いだしたか知らないけど、それは会話の中で彼を呼ぶときのコードネームだった。
闇夜の月。なんつう名だ。
字面だけは綺麗に見える。でも想像してみてよ。
真っ暗闇に冴えた月。ひんやりと冷たい。
私は、サッカー部のマネージャーだった。
もちろん、部内にお目当ての先輩がいたのだ。その名を高崎先輩という。
始まりは部活見学のときだった。とくに部活に興味のなかった私は、単に友人の付き添いであっちこっち回っていた。マネージャー業に恋を期待する彼女に、男子の部活にまでひっぱりまわされて。正直、サッカー部に着いたころには少し疲れてきていた。
ところが、そこで出会ってしまったのだ。つまり、高崎先輩に。
「見学? ゆっくり見てってね」にっこり笑って、先輩はおっしゃった。
普通、男子の部活というのは女子をあまり歓迎しない。確かに女の子が欲しいところではあるけれど、実際戦力となるのは男子、というわけである。それをまったく感じさせなかったこの人に、私はじぃんとした。
入部、即決定。
そこで初めて会った闇月くんは、サッカー部員だった。
私のいつもの視線の先を見てとると、ふうん、と唸った。そして言った。
「あきらめろ。おまえじゃつりあわない」
一瞬、頭が真っ白になって、頭の中のあるメーターがぴぴっと振りきれた。
……こいつは敵だ。
それだけじゃあない。
男ばっかりの部では、貴重な女子、マネージャーは結構ちやほやされる。それに甘えてた私も悪いんだろうけどさ、
「茶ぁぐらい淹れられないのか。働かないマネージャーはいらないんだよ」
と、のたまいやがったのだ、闇月くんは。(あ、この場合のお茶って麦茶のことね。)
そんな言い方するか、普通?
だいたい、闇月くんは怖いのだ。
冷たいとも思えるような無機質な声で、すぱっとグサッとくる言葉を言う。それが的を射てるもんだから、こっちは言い返せない。そりゃあフラストレーションもつのるってもんよ。
表情が読めないので、何を考えてるのかも全然わからない。
闇月くんは色のついた眼鏡をかけている。光過敏だとか何とかで。
ひとりだけ濃い青の、暗い世界なんか見てるからいけないんだ。と、理不尽なことを思ってしまう。
あいつに黙って言わせておいて堪るか!
その怒りのエネルギーを部活の仕事への情熱に変換しまくった。おかげですっかり働きもののキミジマさん、が定着してしまった。おお、偉いぞ、自分。
闇月くんはあんなやつだけど、なぜか慕われたりもしていた。
あのクールなところがいいんだと。
好意的に解釈しすぎ。っていうか絶対、騙されてるぞあんたたち。
とはいえ、私と闇月くんとは相変わらずだった。こっちが一方的に悪意を持っているだけで、相手は痛くも痒くもないようなのだ。片思いみたいなもんじゃないか、ああもう、その比喩だけで腹が立つ。
それでも何事もなく日々は過ぎた。
進展のないまま、いつの間にか先輩が卒業する時期が来た。
告白する勇気はなくっても、ボタンぐらいはもらえるかもしれない。
そう思ってそれとなく、同じくマネージャーの友達にきいてみた。私の思いは秘密にしていたので、できるだけ冗談めかして。
「頼んだら、第二ボタンくれちゃったりするかなぁ」
「ムリじゃない?」とあっさり。
どうして、と訊くと、
「だって先輩彼女いるもの」
同じ中学出身の人には浸透している話らしい。
何をのん気に片思いしてたんだか。
だって、
――知らなかった、から。
家に帰って部屋に入ったら、突然泣けてきた。
うわあ、私、本気で好きだったんだ。そうだったんだ。
泣き疲れてそのまま寝てしまったら、みごとに風邪をひいた。
それでも、負けるようで嫌だったから、学校は休まなかった。こんなところで負けず嫌いを発揮するとは、我ながら呆れたけれど。
……問題は部活だ。
いかにも何かありました、という顔で行きたくはない。
溜息をついて憂鬱な気分で教室を出ると、闇月くんがいた。
「キミジマ。おまえ今日、部活には出るな」
びっくりした。そりゃありがたいけど、理由を訊かずにはいられない。
「部員に風邪をうつす気か?」
……ああ、そう。そういうことか。私の気持ちなんかどうだっていいのね。
――そんなことを闇月くんが知るはずはないのに。私はなんて愚かだったんだろう。
それでも感情のまま滑り出した言葉を止めることはできなかった。
「……嫌いよ。あんたなんか大っ嫌い」
しまった、と思った。
それは、人を傷つける言葉だ。
でもやっぱり、闇月くんは闇月くんだった。
「知ってる。――じゃあな」さらっとそう言って、去りぎわに何かをぽんと投げてよこした。
うっかりキャッチしてしまった私。手を開いて見ると、飴玉だった。
帰り路、飴玉を口に入れながら考えた。
――闇月くんってどういう人なわけ?
もしかしたらこの飴は、闇月くんの優しさなのだろうか。
それとも、意味なんかないのだろうか。
私は、闇月くんに対する評価をどうすればいいのかわからなくなってしまった。
私の頭を悩ますものがきりかわったせいなのかな。
先輩が卒業しても、それほど胸は痛まなかった。
時間が経てば、この気持ちも薄れていってしまうんだろう。
そんなある日。
バケツをひっくり返したような雨が降った。ばたばた、と雨が窓を叩きつける。
帰るころには少々ましになったとはいえ、私は傘を持っていなかった。靴箱のあたりで馬鹿みたいにつったって、走って帰るか止むまで待つか、考えていた。
あとから現れた闇月くんの手には傘があった。あ、いいなぁ……と思って、私はその傘を見つめてしまった。
よほどうらやましそうだったのだろう。
「何、入れてほしいわけ?」
そう闇月くんは聞いてきたのだけれど、私が素直な返事を返せるわけもなかった。
「べ、別にっ」
「素直じゃねぇな」
あっさり返して傘を開くと、闇月くんはさっさと帰ろうとした。
――ちょっと待て。こういう場合、入れてあげるよ、って言わないか普通。
ああいう返事を返した手前だが、女の子の思考というのはとかく、我侭にできているものなのである。
「待ってよ。……入れてくれないの?」
「じゃあ、ちゃんと言いな」と闇月くん。
うっ、と私は詰まった。しかし、背に腹は替えられない。
「……お願いしマス」
帰り際、あまり会話はなかった。あっても、沈黙にたえられない私が、ほとんど一方的に話しかけていただけである。
闇月くんはまっすぐ前を見て、ただ黙々と歩いた。
見上げた横顔のラインが、綺麗だった。うん、こんな近くで顔を見たのは初めてかもしれない。
――目を、見たいな。
初めて、そう思った。
そして次の日。
気まぐれを起こした私は、放課後闇月くんを迎えに行ってみた。
隣は私のクラスより早く終礼が終わっていて、半分ぐらいの人は既に帰っていた。
私は友達を呼んだ。
「闇月くん、もう行っちゃった?」
「今日は部活休むって」と彼女は言った。「熱があるって言ってたよ。いま出ていったとこ」
……それって。
「――ありがとっ」
私は教室を飛び出した。慌てて闇月くんを追いかける。
――ばか。
きっと、昨日の雨に濡れたんだ。
私はあまり濡れなかった。それは、私の分まで闇月くんが濡れたってことを意味していた。きっと、半分ぐらい肩がはみだしていたんだろう。
やっと闇月くんに追いついて、私は声をかけた。そして振り向いた闇月くんに思いっきり怒鳴ってしまった。
「ばかっ、どうしてそうなのあんたって!」
「なんだよキミジマ」
「熱があるって、おまえのせいだって、言えばいいのに」最後のほうは涙声のようになってしまった。
「……言ってどうにかなるわけ?」
私はそのとき、泣き出しそうな顔になっていたと思う。
――だって、悔しかった。
闇月くんを今まで誤解し続けてきたことが、この人が誤解され続けていたことが。悔しかった。
「……ごめん、ごめんね……」
「うん」返事はひとこと。何が、なんて訊かなかった。
きっとわかっていたんだと思う。
――ああ、敵わない。
最初から結果のわかりきった勝負をしているみたいだった。
闇月くんは、私と違う世界を見ているんだ。ずっと、広い世界を。
<了>
2003 08 25