みちびきのみたま

 しとしとと降り続いた雨が、止んだ。 雨の匂いがする森を、里遠りおんはゆっくりと歩いてゆく。しっとりと濡れた、土の感触。靴の裏が軽く沈む。
 彼は、陽の光も届かないような深森の奥を、散策するのが好きだった。連れは持たない。
 ふと、魂の響きを感じた。音叉が共鳴するような、しかし静かな感覚で。
 彼の耳が、身動ぎでもするようにぴくりと動いた。
 里遠の行く先に少年がひとり立っている。そこだけ薄暗いながらにひとすじ、ふたすじの光が確かに降り注いでいた。
 少年の輪郭がはっきりとわかる。こちらに向けた、青い瞳が眩しそうに歪んだ。
「やぁ」里遠は言った。
「やぁ」少年が返した。
 少年の背中には漆黒の翼が生えている。――堕天の印。
「久しぶり。おまえ、変わりないな。導者みちはってのは年取らないのか?」
 右目に宿る銀の光が鈍くなる。困ったような笑みを少年は浮かべた。滲み出る喜びが後ろめたいものであるかのように。
 里遠は穏やかに微笑み返す。
「おれはエルフだから寿命が長いんだ。……久雲くうんも変わりないみたいだね」
「そうだな。ここに帰ってきちまったよ」
 顔に広葉樹の影が落ちる。葉擦れの音が、さわさわと聞こえる。
 里遠の紫の髪と、久雲の青の髪が風に乱れた。


「君の存在を感じたよ」低く里遠が呟く。
「わかるのか」
「……独りだから」
 孤独は惹かれあうんだよ。口の中で言葉がこもった。
 孤独な少年たちの醸す空気は同じだった。だからお互いを認めて嬉しくもあったし、そのことを辛くも思った。
 久雲は天使だった。天から堕とされて、時間の流れに取り残された。
 そして、里遠に出会った。
「胸の中を荒れ狂う風が突き抜けてくみたいだった。それを物みたいに扱われるのも、そこで罪が終わるのも嫌だった。だから、おまえから逃げたんだ。……でも戻ってくるのが運命だったのかもしれない」
 独りは嫌なんだ。泣き出しそうな声で久雲は言葉を吐いた。
「おれは、導者みちはだから」と里遠は返した。
 額の赤い刻印を幾度疎ましく思っただろう。
 でも逃れることはできない。彼は導く者だから。世界の司だから。
 エルフの郷にいれば、里遠は孤独ではなかったのに。知り合ったのは先立つ人たち。好きだったのに、皆、また訪れる頃にはもういない。
 それでも旅を続けなければならない。導者は一箇所に留まることはできないのだ。運命を呼び寄せ、世界の理を管理するために。
 いま彼は理の捩れを解かなければならない。――久雲の罪を許すのだ。
――さあ、君の話を」


 時の流れは速すぎる。どれぐらいむかしのことだったろう。
 久雲にはリジオという友がいた。種族の違いなど、ないに等しかった。ふたりはいつも一緒だったから。
 その日は運命の分かれ目だった。
 まだ純白だった翼で、久雲は空を横切っていた。
 遥か下に、赤い炎の色を認めたときには手遅れだった。どんなに急いで、翼がもげるほど飛ばしても、間に合いはしなかった。
 リジオの家は炎に包まれていたのだ。
 それでも、躊躇いはしなかった。リジオの姿が見えなかったから。
 目の前で腕を組み、顔を護ると久雲は二階の窓から家の中に突っ込んだ。ガラスが砕け、炎が久雲を嘗める。
 勢いのまま床に転がる。踊る火の粉が右の目を焼いた。
 苦痛の声で名を叫ぶ。
「リジオ!」
 何度も呼んだ。何度も何度も。声嗄れるまで、涙果てるまで。
 やっと見つけたリジオは、下の階で倒れていた。
 煤け汚れた姿で、体中に火傷を負って、それでも彼は生きていた。
「ああ、久雲。何やってるんだ、逃げないと……」
「逃げるさ、おまえを連れてな」
 なるべく明るく答えた久雲だが、内心は重症のリジオに酷く動揺していた。
「駄目だよ」静かにリジオは言った。
 見ると、足が倒れた柱の下敷きになっている。とても久雲ひとりでは持ち上げられそうにもなかった。その柱も既に炎の侵蝕を受けている。
「おまえの足を切ってでも連れてゆく」
 かぶりを振って久雲は答えた。自分でも、無茶を言っているとわかっている。
「駄目だ」
 強い調子で、きっぱりとリジオは久雲を撥ねつけた。
「ふたりで逃げることはできない。退路は断たれたんだ。いまなら、おまえひとりなら、何とか二階の窓から飛べるだろう」
 久雲は何も言えなかった。彼も痛いほどわかっていたのだ。
「久雲。ひとつだけ、頼みがあるんだ」
 ――ああ、死ぬんだ。最期の言葉めいたものを聞いて久雲は観念した。何だい、と優しく返事をする。
「おまえの右目はもう駄目だろう。僕の瞳を使ってくれ」
 久雲は、ぎくりとした。確かにる機能を移すことはできるだろう。
 ――だがそれは。
 戸惑ったように久雲はリジオを見た。悲しげな笑みが彼を見返す。
「……わかったよ」
 久雲は承諾した。リジオが思い残すことのないように。


「いつまでも、燃え落ちる家を見つめていた。いつの間にか俺の羽は黒くなっていて、これは罰なんだと知った。リジオを見捨てたことへの。あいつの目を奪ったことへの」
 これでいいと思ったはずなのに、と久雲は泣いた。
「おれはずっと幼いままだ。あのまま時間は流れないんだ。取り残されてゆく」
「ねぇ、久雲」緩やかに里遠は言葉を発する。
「君の目にリジオは宿ってるじゃないか。右の銀色はその証だろう? 彼は君の目になって生きることを選んだんだ」
「……そうだな」
 誰かにそう言ってもらいたかった。自分だけではいくら納得しようとしてもできないから。
「どうしておれは許されないんだろう」
 ぽつりと久雲は呟いた。友が自分を許していたなら。どうして。
「久雲、天は罰など下さない」
――え?」
「それは君たち天使の本能なんだよ。罰されないまま生きてはゆけないと」
 自らそうしなければ罪悪感に潰されてしまう、と。
――っ」
 久雲は顔を覆った。唐突に理解した。
 ああ、そうだったのか。
 自分のすべてを許さなければ、この呪いは解けない。
「君はいったい、何に囚われているんだい?」


「……里遠」
 久雲は、のろのろと口を開いた。
「おれが元に戻ったら、おまえはまた独りになる。おれの方が先に死ぬんだぞ」
「……それを、気にしていたの」
 ばかだなぁ、と里遠は微笑んだ。
「生きることはいつだってひとりきりだ。寂しくたって、おれはおまえの道を邪魔する気はないよ」
「そうか」
「うん」
 久雲は、笑った。
 彼の身体が、真白に輝き出す。
 漆黒の翼が純白に変わってゆく。
 一片、白い羽がふわりと風に消えてゆく。
――さぁ、行こうか」
 里遠は春の陽射しのような笑みを浮かべた。

<了>


あとがき
novel

2003 10 29